創竜伝01 超能力四兄弟 田中芳樹 ------------------------------------------------------- (テキスト中に現れる記号について) 《》:ルビ (例)遥《はる》か未来に |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)単身|赴《ふ》任《にん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- 目次 第一章 春雷 第二章 ささやかな陰謀 第三章 迷惑な招待状 第四章 悪役、交替す 第五章 灰色の黄金週間 第六章 対面 第七章 竜泉郷 第ハ章 さわがしい訪間者 第九章 演習場 第十章 竜王顕現 [#改ページ] おもな登場人物 竜堂《りゅうどう》 始《はじめ》(23)竜堂4兄弟の長兄。共和学院の最年少理事。 竜堂《りゅうどう》 続《つづく》(19)竜堂4兄弟の次兄。上品な物腰の美青年。 竜堂《りゅうどう》 終《おわる》(15)竜堂4兄弟の三弟。ヤンチャな悪ガキ。 竜堂《りゅうどう》 余《あまる》(13)竜堂4兄弟の末弟。潜在的超能力は最大。 鳥羽《とば》 茉理《まつり》(18)竜堂兄弟の従妹《いとこ》。明朗快活な美人。 鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》(53)茉理の父。共和学院の現院長。 古田《ふるた》 重平《じゅうへい》(54)保守党代議士。粗暴きわまりない。 高林《たかばやし》 健吾《けんご》(53)内閣官房副長官。エリート警察官僚。 鎌倉《かまくら》の御前《ごぜん》(推定90)政財界の黒幕。 [#改ページ] 第一章 春雷       ㈵  二〇世紀の終りを数年後にひかえたその年の三月末、大規模な春の嵐が東京周辺を襲った。  実害というほどのものはなかったのだが、落雷による停電や一時的な出水による公共交通機関の運行停止など、春休みの行楽客を中心に、迷惑をこうむった人々の数はけっこう多かった。逆に、利益をえた人もいるわけで、関越自動車道ぞいにその年開店したばかりのドライブイン「五月三十五日」は、風雨をさける客でごったがえした。  一〇代の兄弟がふたり、ようやくあいた席を見つけてすわることができたのは夜九時五〇分のことである。乗っていた観光バスが、スリップしたオートバイに衝突され、事故現場から一キロ近くも雨のなかを歩いてきたので、全身びしょぬれだった。  兄のほうは竜堂《りゅうどう》終《おわる》、弟のほうは竜堂|余《あまる》という。兄は一五歳、弟は一二歳で、春休みの一日を利用して。榛名《はるな》山に近いスポーツランドに出かけた帰りだった。近くの商店会から優待券をもらって、ローラースケートやフィールドアスレチックを楽しんだまではよかったが、急激な天候変化と、いくら予報がはずれても倒産しない気象庁のおかげで、九回裏に逆転サヨナラホームランを打たれた次第だった。色の白い弟の顔がわずかに紅潮しているのを見て、兄がその額に手をあてた。 「気分はどうだ?」 「ちょっと寒けがする……」 「しっかりしてくれ、おまえに風邪でもひかれたら、おれは兄貴どもに粛清されちまうよ。いま熱いコーヒーを買ってくるから、ここで待ってるんだぞ」  終《おわる》はコーヒースタンドに飛んでいった。弟と似た、秀麗といってもよい顔だちだが、小麦色に陽灼《ひや》けして、くせっ毛で、両眼に活気がみち、清爽《せいそう》さを感じさせると同時に、美少年というより悪童という印象が強いのは、昨今ではかえって珍しいかもしれない。  スタンドで待たされた時間は、五分ほどのものだったが、弟のところへもどろうとして、終《おわる》は目標を失った。弟の姿が消えていたのだ。両手にコーヒーの紙コップを持ったまま、終は店内に視線を走らせ、トイレをのぞき、対策を目撃者さがしに切りかえた。 「すみません、弟がいなくなったんですけど、どこへ行ったかご存じありませんか」  ことばつかいはていねいだったが、礼儀がむくわれるまでに、五組ほどの男女からすげなくあしらわれた。 「そこにすわっていた男の子なら、黒い服を着た男たちがつれていったよ」  ようやく、丸い顔の中心に小さな目鼻を集めた学生風の客が教えてくれた。 「どっちへ行ったんです!?」 「上りだよ。東京方面だ」 「ありがとう、このコーヒー、飲んでください」  その客に紙コップを押しつけると、終は、いったんドライブインの外に飛びだしたが、すぐ店内にもどった。自分の席においてあったナップサックからローラースケート・シューズをとりだして、手ばやく装着する。店内の男女が無言で見守るなか、終《おわる》は、軽くなったナップサックを背負いなおすと、ローラースケートを鳴らしながら、雨のふりしきる屋外へ飛びだしていった。  客のひとりに、マスターが、あきれかつおどろいたように話しかけた。 「あの子、ローラースケートで自動車に追いつくつもりですかねえ」 「まさか。だけどおもしろいな、ひとつ賭けてみようか、マスター、追いつけるかどうか」 「結果をどうやって判定するんです? それに最初から賭けになりませんよ」 「そりゃそうだな。しかし、あれ。警察に通報しなくていいのかい、誘拐事件じゃないのか」 「あ、いや、だって、つれていった連中が警察でしたからね。かかわらないほうがいいと思いますよ」  マスターは声をひそめた。  豪雨のなか、ローラースケートをとばして弟を退う竜堂|終《おわる》は、警察をあてにはしなかった。マスターのことばを聞いたわけではなかった。とにかく警察にかかわらないよう、兄たちからかたく言われている。  スケートが、路面の水を蹴ちらした。おどろくべき速度だった。人間に出せる速度ではなかった。風はだいたい背後から追風となっていたが、数台の車を抜きさっていく速度は、時速一〇〇キロに達していたであろう。  人前であやしまれないよう、力《パワー》を抑制すること——兄たちにそう言われてはいても、このさい終《おわる》としては、力を出し惜しみしてはいられなかった。  車内には三人の黒服の男がいた。ひとりは運転席でハンドルをにぎり、他のふたりは、麻酔をかがせた余《あまる》をはさんで後部座席にすわっている。 「のんきに眠りこんでやがる。拉致《らち》されたとわかってやがるのかな」  正方形の顔をした男が言うと。口ひげをたくわえた男が慎重そうな表情をつくった。 「こいつの兄貴は、追ってきてないだろうな」 「どうやって追ってくるというんだ、走ってか?」  冷笑しかけた男が、それでもいちおう背後を振りかえりかけて、三秒半の間に表情を一変させた。むなしく口を開閉させながら、口ひげをたくわえた仲間に注意をうながす。  口ひげ男の顔が驚愕にひきつった。あ、とも、う、ともつかない呻《うめ》き声をもらしたまま、視線を窓に固定させている。  自動車と並行して、雨中を走っている少年が、窓から車内をのぞきこんで、両眼を鋭くかがやかせたのだ。見つけた、という形に口が動いた。車体に身をよせ、窓ガラスをたたく。「走る非常識」を眼前に見て、男たちは対処法を見失っていた。  少年の声がガラスごしに伝わってきた。 「弟を返せ! 身代金一兆円以上だったら、あらためて話にのってやるからさ」  運転席の男は、あえぎ声をあげてスピードメーターの数宇を確認し、もう一度あえいだ。口ひげの男は、かろうじて呼吸をととのえると、動転しきった仲間に、強い口調で命令した。 「撃ち殺せ」 「いいのか……?」 「かまわん、後始末は古田|代議士《せんせい》がしてくださる」  うなずいた男が、服の内ポケットに右手をつっこんだ。左手で窓のハンドルをまわす。車に並行して走りつづける少年の胸に、三八口径の拳銃をつきつけた。否、つきつけようとした。  その手首を、少年はひっつかんだ。動作そのものは無造作だったが、スピードが尋常ではなかった。暴力のプロであるはずの男が、あっけなく手首をつかまれ、動きを封じられてしまったのだ。驚愕が、激痛に直結し、男は、正方形の顔のなかで、とびだすほど両眼を見開いた。  男の手首がへし折れた。  車内に絶叫が反響した。うるさそうに眉をしかめると、終《おわる》は、折れた手首をそのまま強引にひっぱった。男の身体は当然、ひらいた窓から外へ引きずりだされてきた。  窓から引きずりだされた男の身体は、そのまま路上に投げだされた。右手だけで、少年はその作業をやってのけたのだ。男は日本人として小柄ではなく、骨太の身体は七〇キロほどの体重はあったにちがいない。それを、少年は、子猫をあつかうほど軽々と放りだしたのである。  男の身体はコンクリートの路面でバウンドし、夜と雨のカーテンの彼方へ、たちまち遠ざかっていった。車内に残ったふたりの男は、自分たちの正気をうたがった。「夢」という美しいことばの存在にすがりつきたい気分だ。  その間に、少年は、自動車の屋根に両手をかけ、しなやかな身体にバネをきかせて、路上から飛びうつっていた。雨と風に打たれながら、屋根にはりつき、草の後部右側のドアに両手をかけると、「よいしょ」と声をかけてドアを車体からひきはがしたのである。  車内の男たちは、神経網の一部がはじける音を耳にした。ありうべきことではなかった。  雨と風と恐怖が車内に吹きこんできた。ドアを、無人の路肩《ろかた》へ投げすてると、終は、ドアの形をした開ロ部から車内をのぞきこんだ。さかさになったその顔が、にやっと笑うのを見て、口ひげの男はわめいた。 「く、来るな。おまえの弟を殺すぞ!」 「へえ、どうやって?」  少年の反問が、男を絶句させた。現に、弟のこめかみに銃口があてられるのを見ながら、少年は落ちつきはらっている。男は、いまさらのように狼狽した。切札をそう簡単に失うわけにはいかなかった。脅迫に失敗し、引金をひくこともできずにいる男の耳に、弟に呼びかける兄の声がとどいた。 「余《あまる》、そろそろ目をさませよ」  男の心臓が口から飛びだしかけた。このうえ、弟まで、化物じみた怪力をふるったらどういうことになるのか。  だが、余《あまる》は麻酔ガスの効果であろうか、すやすやと健康そうな寝息をたてているだけだ。男は安心しかけた。  不意に呼吸がとまった。男が銃口を突きつけたあたりの少年の皮膚が、真珠色にかがやいているのを見たのだ。真珠色のかがやきは、すこしずつ拡大していた。男の視線は、ほんの一瞬、そこに吸着した。  その瞬間を、自動車の屋根にいた少年は見逃がさなかった。失われたドアの縁に、後ろむきに両手をかけ、鉄棒の後転の要領で身体を一転させた。車内にとびこむ。それと同時に両足をつきだし、力まかせに、口ひげの男の身体を蹴りとばした。男の身体は半分ひしゃげて、反対側のドアにたたきつけられた。  口ひげの男は、はずれたドアごと、耳ざわりな悲鳴をあげて車外にとびだした。一瞬、泳ぐような姿勢をとったが、たちまち、最初の仲間のように路面にバウンドし、視界から消えさった。運転席の男は咽喉《めど》のつまった叫びをあげた。両手も足もまったく動かすことができなくなった彼は、かえってそこに唯一の活路を見出し、鳴りひびく歯の間から声をしぼりだした。 「お、おれに手をかけてみろ。この車は時速一〇〇キロ近くで走ってるんだ。たちまち衝突してあの世行きだぞ」 「停める気がない? じゃあ、いいさ」  むしろめんどうそうに終《おわる》は言いすて、毛布にくるまれた弟の身体を両腕にかかえあげた。後部座席のドアは、左右とも失われて、雨と風を水平に通過させるトンネルと化している。 「ざまあ見ろ、どうしようもないだろう」  音律を完全にはずした声で運転席の男はわめき、バックミラーを見やった。左側のドアから、少年が弟をかかえたまま、力学も慣性も無視したように、ひょいと飛びおりるのが見えた。一瞬の自失。振りかえり、もう一度振りむいたときには、すでに遅かった。  自動車はカーブを曲がりそこね、タイヤに悲鳴をあげさせながら、ガードレールに激突した。白い破片をまきちらしつつ、見えないエスカレーターの上をすべり落ちていく。  夜の一角に、オレンジ色の花が咲き、轟音が雨と闇のヴェールを突きやぶった。一度だけ振りむいた終《おわる》は、さらに一キロほどの距離を走りぬけ、適当な場所で余をおろしてガードレールによりかからせた。のんきに眠りこんでいる弟の白い頬を、かるく掌《てのひら》でたたく。頬の真珠色のかがやきが消えているのを見て、ほっとしながら、 「おい、起きろよ、余《あまる》、のんきな奴だな、人の苦労も知らないで」 「…あ、終《おわる》兄さん、おはよう」 「ねぼけるなよ、ほら、立って」 「どうしてかな、眠くてたまらない。どこかで寝ていこうよ。そのほうが安全だと思うな」 「こら、眠るな。そんなことで南極探険家になれるか」 「べつになりたくないもの。ばくは冥王星探険に行くから。人工冬眠に慣れていたほうがいいんだよ  語尾に寝息がつづいた。  その夜、鬨越自勤車道の路肩部を、眠りこんだ弟を背負って、ローラースケートで疾走する少年の姿を見たドライバーが幾人かいた。 「こんばんは!」とあいさつされた者もいたようだが、あまり話題にならなかったのは、目撃者たちが自分の理性に信頼感をおかなかったせいであろう。関越自動車道のその一帯に、ローラースケートをはいた幽霊がでる、という噂がたったのは、かなり日数が経過してからのことである。       ㈼  東京都中野区、哲学堂公園から北へ五分ほど歩いた住宅街の一角に、竜堂兄弟の家がある。半ば霧にかわりつつある雨のなか、弟を背負った終《おわる》がわが家の門をくぐったのは、一一時をすぎたころだった。  玄関脇に国産高級車がとまっているのを横目に見ながら、そっと家のなかにはいる。  家は広くて大きい。駅までの道が舗装もされず、轢《くぬぎ》林と野莱畑にはさまれていた時代に建てられたもので、古いが堅牢《けんろう》な洋館風の木造建築である。総二階のうえに屋根裏と地下室までついていて、四人兄弟でもてあますほど広い。  一階は、玄関ホール、居間、応接室、食堂、書斎、浴室、台所などだが、台所だけで、一O畳ほどの広さがある。天井も高い。天井も壁も床も厚く、遮音効果は昨今の建売住宅などと比較にならない。だからそっとはいりこめば、なかなかわかるものではない。終は、靴をぬぎ、眠っている余《あまる》の身体をホールにひきずりあげた。  そのとき、終の背後から、静かな声がかかった。 「誰ですか、ただいまも言わずに家にあがりこむのは」  とびあがった終は、振りかえって直立不動の姿勢をとった。 「た、ただいま、続《つづく》兄さん」 「お帰り」  次男の続《つづく》は一九歳である。この四月、共和学院大学人文学部の二年生になる。専攻は西洋史で、中世ドイツ騎士団のバルト海進出について研究している、と、自分では言う。 「遅かったですね、終君。一〇時までには帰るという約束でしたよ」  弟に対してまで礼儀ただしい口のききかたをする。白皙《はくせき》の、完壁にととのった繊細な顔だちは、幽艶《ゆうえん》といってよいほどだ。やたらと女の子たちに騒がれるのもむりはない。  もっとも、終《おわる》はよく知っている。夢幻的なまでの美貌を持ったこの兄が。外見からは想像もつかないほど過激な一面をしめす場合があることを。何しろ、街を歩くと、体格がよくて人相の悪い、はでな服装の男たちが、顔色を変えて、こそこそと路地に姿を隠すのである。人間を外見だけで判断してはいけない、という教訓を、多額の治療費とともに思い知らされているのだ。 「悪かったよ。でもちょっと事情があって」 「後で始《はじめ》兄さんにあやまるんですね、ぼくではなくて」  竜堂家の当主は長兄の始《はじめ》である。年齢は二三歳、職業は教師で、共和学院の高等科で世界史を教える一方、同じ学院の大学の教養課程では非常勤講師として東洋史を担当している。そして、共和学院の一四名の理事のひとりでもあった。むろん最年少である。祖父の司《つかさ》は、自分の死にあたって、孫の始《はじめ》を理事にするよう遺言したのだった。  竜堂四兄弟にとって、旱く亡くなった父親は、妙に影の薄い人だった。育ててくれたのはむろん、名前をつけてくれたのも、豪快で奥ゆきの深い人柄を持った祖父である。もっとも、ネーミングのセンスがよいとは、四人とも思っていない。上から順に。 始《はじめ》、続《つづく》、終《おわる》、余《あまる》ときては、笑話の種にならないのが不思議である。 「後でって? いまでなくていいの?」 「兄さんはいま応接室でお客に会っていますから。余君に薬を飲ませて、寝かせておいでなさい」 「お客って誰?」 「叔父《おじ》さんが来てるんですよ」 「招待したのかい?」 「まさか。押しかけですよ」  続《つづく》の声は、好意にみちているとは、とても言えない。余を二階につれていく途中で、終は応接室のガラス戸こしに室内をのぞいてみた。  たしかに叔父の鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》だった。銀行の中堅幹部か官僚を思わせる容貌の持主である。それを確認しただけで、終は二階に上った。会って話をしたい相手ではなかった。  叔父とはいっても、竜堂家の兄弟たちと血のつながりはない。彼らの父親の妹、つまり叔母と結婚した人である。年齢は五三歳、共和学院の院長をつとめている。彼の義父、つまり竜堂兄弟の祖父である司《つかさ》が在世中は、常任理事をつとめていた。  家と同様、古いが重厚なソファーに腰をおろして、始《はじめ》と向かいあっている。緊張して、落ちつきをかいていた。暖房がそうきいているわけでもないのに、やたらと汗をぬぐう。  もともと彼は、三〇歳も年下のこの甥が、なぜか苦手だった。努力して虚勢をはっても、圧倒され、萎縮してしまう。  始《はじめ》は日本人ばなれした均整のとれた長身の持主で、顔の彫りも深い。西欧人的というより、かつてユーラシア大陸を駆けめぐった騎馬民族の王侯でもあるかのような、奇妙な風格があって、同年輩の若者たちの間でも異彩をはなっている。もともと愛想のよいほうではない。まして、この夜、靖一邸は甥に、理事職をしりぞくよう求めにきたのである。  ドアがあいて、続《つづく》がコーヒーを運んできた。ろくに叔父の顔を見ようともせず、コーヒーカップをテーブルにおいて立ちさろうとしたが、始《はじめ》が声をかけた。 「出ていかなくてもいい。ここにいろよ、続《つづく》」  叔父の靖一郎が、わざとらしく眉をしかめた。 「これはだいじな話なんだがね、始《はじめ》君」 「だから続《つづく》にいてもらうんです。こいつはぼくより思慮があるんでね」  続《つづく》は壁ぎわにさがったが、兄のほうにしたがうようすなので、靖一郎は話を再開した。 「……始《はじめ》、君が辞表を出さないと、つぎの理事会で解任ということになる。まあ要するに君は学校法人の理事としては若すぎるのだよ。べつに不祥事があったわけでもないが、もうすこし人生経験をつんでから、あらためて経営に参画してくれてもよかろう」 「そうかもしれませんね。ところが、理事をやめさせられて不満を感じるていどには、年をくっているんですよ、兄さんは」  そう言ったのは続《つづく》で、始《はじめ》は腕を組んだまま黙って叔父の顔を見つめている。 「続《つづく》は黙っていなさい。私は始《はじめ》と話をしているんだ」 「黙りましょうか、兄さん」  ことさらに叔父を無視して続《つづく》が問うと、黙ったまま始《はじめ》はかぶりを振った。つまり、始《はじめ》は自分の代弁者として、弟をこの場に残したのである。それと知って、靖一郎はむっ[#「むっ」に傍点]とした。甥たちが、目上である自分をないがしろにしていると思った。これは邪推の結果だが、じつのところ、正確に事実をとらえていた。  敬意をはらわれなくても、しかたないのである。学院の創立者であった義父の理念を無視して、靖一郎は強引な学院運営をおこなってきた。義父の信頼していた理事をやめさせて、利権政治家として悪名高い人物を後にすえ、キャンパスの移転を計画し、入学者と校則の数をやたらと増やし、さらに学費を値上げし、大小さまざまに学院を変質させてきたのである。 「私は帰る。きわめて不愉快だ。君たちはもうすこし礼儀や常識をわきまえていると思っていたよ。すこしは反省する気になったなら、連絡してくれ。まにあううちにな」 「ええ、ぜひもう一度いらしてください。この家が誰かに放火されないうちにね」  続《つづく》の美貌が、冷たい毒をはらむものに見えるのは、こういうときである。靖一郎は、はっきりと顔色を変えたが、無言のまま、両肩をそびやかして応接室を出た。腕力ざたになれば、勝目はなかったし、竜堂家に脅迫のため火をつけようという粗暴なプランが、じつは靖一郎の背後にいる人物からしめされたこともあるのだった。  叔父の車が門を出ていくのを確認した後、始《はじめ》と続《つづく》は居間にはいった。石油ストーブをつけて、だだっ広い部屋をあたためる。 「叔父さんは、やっぱり学院を乗っとるつもりでしょうか」 「もうほとんど乗っとっておいでさ。われらが辣腕《らつわん》な叔父上どのは、祖父《じい》さんの死後に、まったく時間をむだにしなかったからな」  始《はじめ》は苦笑した。彼らの叔父は。他の点はともかく、勤勉という点にかけては非難の余地がない人物だったのだ。 「まあいい、さしあたって、お茶にしたいな。二時間も陰険漫才をやっていると、さすがに気づかれする」 「コーヒーをいれなおしましょう。ところで、終《おわる》君を呼びますか。二階ですきっ腹をかかえて、階下《した》のようすをうかがっていますけど」  見もしないのに続《つづく》は笑ってそう言った。彼が台所に行ったのと、入れかわるように、終《おわる》があらわれた。温かいシャワーをあびて、服も着かえている。 「余《あまる》は寝たか?」 「ぐっすりだよ。寝顔だけ見てると天使みたいだけどね」  カーペットの上にあぐらをかいて、終は、台所からただよってくる匂いをうれしそうにかいだ。一〇分ほどして、残りもののホワイトシチューを温めなおし、それにロールパンをそえて、続《つづく》が弟のところへ持ってきてくれた。 「……で、何があったんだ?」  やがて長兄に正面からそう問われると、満腹した終は、関越自動車遺でのできごとを語らないわけにはいかなかった。ありていにいえば、食い物につられたわけである。 「……そうか、まあ大したことがなくてよかった」 「だろ、兄さん」 「などと言うと思ったら大まちがいだ。余《あまる》にもしものことがあったら、お前自身がシチューの実にされていたところだぞ」 「だって、おれ、余を助けたんだぜ」 「その前に、きちんと目を離さずにいれば、何もめんどうがなかったと思うがな」 「まあ、兄さん、どうせ今夜でなくても、そいつらは隙を見て余君に危害を加えようとしたでしょう。人目のないところで一件が落着したのは、むしろ、さいわいでしたよ」 「そうだよ、さいわいだよ」 「終《おわる》君がえらそうに言うことではありません。せめてその誘拐犯どもの身分を確認しておくべきでしたね。草を刈っても根を残してしまったわけですよ」  終は頭をかかえてみせた。たしかに続《つづく》の指摘は正しい。 「でも、あいつらは何も知らなかったと思うな。おれたちのやることに、いちいち、おどろいていたもの」 「下っぱはいつだって何も知らないさ。問題は奴らに命令した黒幕のことだ」  始《はじめ》が言うと、終は首をすくめて、もういちど恐れいった。統《つづく》がシチューの皿を盆《トレイ》にのせながら、 「明日の新聞を見たら、あるていど敵の力量が判明すると思いますよ。三人が死んだ事故が、まったく記事になっていなかったとしたら、敵は警察とマスコミのすくなくとも一方を支配していることになります」 「たぶん両方だろうよ」  始《はじめ》は苦笑ぎみにつぶやくと、その夜三杯めのコーヒーに角砂糖を放りこんだ。 「祖父さんが、死ぬ前に言いのこしたそのとき[#「そのとき」に傍点]とやらが、そろそろ到来したのかもしれないな」 「ちょっと早すぎますね。ぼくは平和な時代に一度、選挙権を行使しておきたかったんですけど」 「おれもさ、酒と煙草をやってみたかったなあ」 「終君は、もう二度ばかりやってるでしょう」 「な、何のことかなあ」  弟たちの会話を聞きながら、始《はじめ》は、死んだ祖父のことを思いだしていた。 「わしが死んだら、靖一郎のやつは、学院の私物化にのりだすだろう」  と、祖父は、一度ならず始《はじめ》に語ったのだった。 「始《はじめ》、お前には、この学校なんかより、もっと大事なものがあるんだからな。この土地や建物なんぞ、欲の深い靖一郎にくれてやれ。お前が守らなきゃならんものは他にある」  祖父がそう言ってくれたおかげで、始《はじめ》は、学院の権利や財産をめぐって叔父とあらそう愚から解放されたのである。とはいうものの、義父の創立した学院を横領《おうりょう》するために、あくせくと小策をめぐらす叔父に対して、とうてい好意的にはなれなかった。  それに、始《はじめ》は完全に人生の自由を確保できたわけではない。学院を守る義務のかわりに、べつの義務が生じたからだ。それは、たかだか、二三歳になったばかりの青年にとっては重大すぎる責任だった。とはいえ、他に誰に代わってもらいようもないのである。       ㈽  この春雷の夜に、日本でもっとも活動的であった人物のひとりは、竜堂兄弟の叔父であったにちがいない。  甥たちとの陰険漫才を劣勢のうちにきりあげた後、彼は、杉並区天沼にある自宅に帰ろうとせず、自動車で中野通りを南下した。雨と風と、道路と天気予報と、そして生意気な甥たちに、たえまなく悪口をはきかけながら、目的地にたどりついた。  そこは渋谷区|松濤《しょうとう》の、閑静な邸宅街の一角で、黒々とした木立が、建物の姿を、大半おおいかくしている。鉄ばりの門扉が、訪間者を拒絶するように、フロントガラスの前方にたちはだかった。ヘッドライトを受けた通用門がひらいて、特殊警棒を持った男がふたり、誰何《すいか》の視線をむける。 「鳥羽靖一郎でございます。遅くなりまして申しわけございませんが、お通しいただけるでしょうか」  甥たちのときとは比較にならない低姿勢でつげ、門内に招じいれられる。築山《つきやま》をふたつまわって、玄関の車寄せで停車し、運転席からおりたった。  その瞬間、靖一郎は立ちすくんだ。濘猛《どうもう》なうなり声とともに、黒い影が三つ、彼の周囲をとりかこんだのである。兇悪な息づかいが。三頭のドーベルマン・ピンシェルの口からもれ、血を渇望する六つの眼球が、靖一郎の咽喉もとに集中した。彼が恐慌《パニック》の沼に片足を踏みいれかけたとき、ドアがあき、叱喧の声が犬たちを追いはらった。 「これは、古田先生……」  声の主に、靖一郎は頭をさげた。 「御前《ごぜん》がおまえをつれてこいとおっしゃった。さっさとあがれ、時間がもったいない」 「まことに申しわけございません。お手数をおかけしまして……」  古田《ふるた》重平《じゅうへい》というその男は、保守党に所属する代議士で、右翼団体や暴力団との関係が深く、極端に国家主義的な主張と暴力的な言動は、党内からさえうとんじられていた。第二次世界大戦の終結によって死滅したはずの、粗大で独善的で反理性的な価値観を体内にかかえこみ、暴力によって外交間題を解決できない日本の現状をくやしがっている。背はそれほど高くないが、全身の肉づきが厚く、巨大な顔は脂《あぶら》ぎって肉食獣めいていた。  古田に白眼をむけられただけで、鳥羽靖一郎は背すじが寒くなる。だが、この邸宅の主人に対する、さらに根源的な恐怖にくらべれば、それは底の浅いものだった。  古田に先導されて、靖一郎は、長い廊下を邸宅の奥へと歩いていった。奇妙に奥深い邸宅で、廊下の角ごとに。けわしい目つきの黒背広の男たちが立ち、無言の威嚇を客に投げつけてくる。やがて、小堀遠州風の日本庭園に面した和室に、靖一郎はたどりついた。 「御前《ごぜん》、鳥羽靖一郎をつれてまいりました」  古田の態度はうやうやしい。彼にそんなことが可能であるとすれば、だが。  床の間を背にして、銀髪の老人が座椅子にすわっていた。やや痩せ型で、皮膚には充分なつやとはりがある。ゴルフウェアに薄手のカーディガンをひっかけ、黒檀《こくたん》の座卓にウイスキーグラスをのせている。一五畳の広さを持つ部屋の一隅には、五〇年配の紳士風の男が、端然と正座していた。  男は高林健吾《たかばやしけんご》といい、現職の内閣官房副長官である。警視庁公安部長、警察庁警備局長、内閣情報調査室長を歴任したエリート警察官僚で、日本における治安問題の権威として知られていた。学歴は、当然のように、東京大学法学部卒業である。老人の下座にひかえた姿は、下僕《げぼく》さながらであったが、古田と靖一郎を見る目には。かなり露骨なさげすみの光がみちていた。  古田は高林を憎悪し、高林は古田を軽蔑していた。犬が飼主の寵《ちよう》をあらそって、たがいに吠《ほ》えあうように、純血種の高林と雑種の古田は、たがいに歯をむきだしあっていたのだ。  老人にとって、高林と古田は、無個性な家畜であり、道具であり、記号であるにすぎなかった。冷徹なエリートと、粗野な成りあがり者、昼と夜、表と裏の一組だった。彼らの個性は、それぞれの立場に付属するだけのもので、独立した人格ではなかった。そんなものは、老人にとって不必要だったのだ。 「古田に鳥羽か、雨のなかをご苦労だったな」 「御前のおんためとあらば、この古田、雨のかわりに槍が降りましょうとも……」  寒気のするような追従《ついしょう》をはきだすと、床の間の花鳥画に視線をうつす。 「気づいたか。すこしは進歩したようじゃな。誰の作だと思う?」 「私のような無学者にはとんとわかりかねますが、中国のものでございますか」 「清《しん》の蒋《しょう》廷錫《ていしゃく》が描いたものだ。一昨日《おととい》、今村《いまむら》が恩着せがましく持ってきおった。たかが建設大臣の地位が、よほど欲《ほ》しいと見えるわ」  古田の先輩格にあたる代議士の名を呼びすてにして、老人はくぐもった笑声をたてた。同席の三人には、とうてい見ぬく力はなかったが、それには、自分自身の演技を皮肉っぽく楽しむひびきがあった。  老人と古田との会話が一段落すると、ようやく鳥羽靖一郎にお声がかかった。靖一郎は、教授や学生たちに対する傲慢な態度を埋めあわせるように卑屈に、竜堂家での甥たちとのやりとりを物語った。老人が無言でいると、古田代議士がじろりと靖一郎を見下して、 「ふん、三〇も年下の甥にこけにされたか。だが、その生意気な甥とやらが、理事の職権を濫用して、リベートをとっていたとするとどうなる?」 「はあ……」 「それとも、女子学生との間に、不潔な関係があったとしたらどうだ? 理事をやめさせるぐらい簡単なことだろうが」  靖一郎が迎合《げいごう》しないので、古田は険悪な表情を皮膚の下から押しだした。 「どうした。甥を学院から追い出すのが気の毒だ、などというのではあるまいな」  靖一郎は、一段と低く身をはいつくばらせながら、器用にかぶりをふってみせた。 「たしかに仰《おお》せのとおりでございますが、私の。妻にとっては、血をわけた兄の子たちでございますし、醜聞にいたしますと、何かとさしさわりがございます」 「ふん、仏心か」 「いえ、それだけではございません。学校法人、教育機関であります以上は、醜聞はなるべく避けませんと、評判にかかわり、さらには経営にひびきますので……」  老人の前では。古田は怒号したり暴力をふるったりすることができない。それを承知しているからこそ、靖一郎は、古田の粗雑な提案に抵抗することができた。力まかせにやってよいなら、とっくに共和学院は彼の手中におさまっている。ここまでどうにか事をすすめてきたのだから、波風は最小限にとどめたいのだ。古田は、いかにも力強そうな歯をむきだした。 「共和学院の創立者は、戦時中、治安維持法と不敬罪の容疑で検挙された非国民だ。そんなやつのつくった学校など、廃校にしてやってよいのだが、君が院長になって、教育方針を正常化するということで、目こぼししてやっているのだぞ」 「おそれいります。古田先生のご厚恩《こうおん》は、終生、忘れるものではございません」  半分以上は嘘である。亡くなった義父に対して、靖一郎はコンプレックスもあれば反感もあるが、一方で敬意を感じてもいた。古田に対しては、いじめられっ子がいじめっ子に対していだくのと同種の感情しか持つことができない。共和学院の資産やそれにからむ利権を、古田に独占されたのでは、年来の苦労が水の泡になるというものであった。  老人がふくみ笑いした。 「古田よ、そう恩を着せることもあるまい。おまえも鳥羽からいろいろと利益をはかってもらっておるではないか。国士たる者は、相手の立場を思いやるものだ。鳥羽にも情があろうというものではないか」  ごく安っぽい説教で、老人は古田を恐縮させた。ひと安心した靖一郎は、つい気が大きくなって、以前から不審に思っていたことを口にしてしまった。 「それにいたしましても、御前《ごぜん》が私めの甥たちをお気になさる理由は何でございましょうか。もし私めにできることがございましたら、御前《ごぜん》のおんために犬馬《けんば》の労をつくさせて……」 「鳥羽!」 「は、はい」 「人間はな、分際《ぶんざい》というものを守っておれば、相応の幸福をえられるものだ。それを忘れたばかりに、自分ばかりか家族まで不幸にした愚《おろ》か者どもがおる。おまえはそうではないと思うのだが、どうかな?」  靖一郎は魂の底から震《ふる》えあがった。 「ご、ご教示ありがたく存じます。御前のこ深慮、私ごときの詮索《せんさく》すべきことではございませんでした。何とぞご容赦くださって、お見捨てなきよう、伏《ふ》してご寛恕《かんじょ》を願いたてまつる次第でございます」  装飾過剰の台詞《せりふ》だが、表情も口調も真剣そのものだ。歯が小さく鳴り、冷たい汗が畳にしたたった。 「わかっておる」  老人はやさしげに言った。犬や猫に対するやさしさであった。細めた目の奥から、毒々しい侮蔑《ぶべつ》の光がもれていたが、はいつくばった靖一郎には見えるはずもない。 「おまえの幸福は、共和学院の全権をにぎることにあろう。ひとたびそうなった上は、三万坪の土地を売りわたして、おまえにとっては巨億の富を手にするもよし、政界に転出するもよし、教育家に徹して勲三等あたりをねらうもよし。好きにするがよい」 「お、御礼の申しあげようもございません」 「ただ、ひとつ念を押しておくが、おまえの甥たちの今後の運命は、おまえにかかわりないことだ。おまえの妻にも、そのことは充分わきまえさせておくことだな」  靖一郎は畳に額をこすりつけた。 「結局のところ、私は、竜堂家にとってよそ者でしかございません。つくづく思い知らされました。もう、御前《ごぜん》の御意《ぎょい》のままにご処分くださいますよう」  半ば迎合するような靖一郎の返答に、老人は薄く笑っただけで、口に出しては反応をしめさなかった。  古田代議士と鳥羽靖一郎が辞去した後、高林だけが老人のもとに残った。古田にとっては不愉快なことであった。高林の、優越感にみちた薄笑いの顔に、古田は空想上の蹴りを三発たたきこんで、しぶしぶ帰っていったのだ。  老人は、高林を近くの席に呼びよせ、自分だけホワイトホースを口に運んだ。 「どうだ、高林、おまえであれば、竜堂家の兄弟を処理[#「処理」に傍点]するのに、どのような知恵をはたらかせる?」 「御前がお望みなら、一週間のうちに、竜堂家から、某国の諜報機関と通じていた証拠が発見されるでしょう。国家機密保護法を今度こそ成立させるための、よい材料にもなるかと存じます」  老人は、手にしたグラスに、唾《つば》を吐きだし、半ば残ったウイスキーごと、高林に差しだした。飲めというのである。 「おまえの父親は、戦前、横浜の特高警察で、敏腕と忠誠心をもって鳴った男だ。今後も、父の名を恥ずかしめるなよ」 「父子二代、国家の安泰にいささかでもお役にたてることを、うれしく思います」  うやうやしくグラスを受けとった高林は、顔の筋肉ひとつ動かさず、ウイスキーと老人の唾を飲みほした。自分が老人の家畜であることを、行動によって証明してみせたのである。 「高林、おまえが真の愛国者であるとすれば。死を恐れたりはせんだろうな」 「もちろんでございます。御前がご命令あれば、私ごときの生命、いつでもなげうってごらんにいれます」  内心の戦慄をおさえつつ即答したのは、高林の本能にもひとしい処世法であった。 「それならよい。ところで、古田と、あやつの飼っておる暴力団など、ものの役にたたん。関越高速道で何がおこったか、おおよそは知っておろうが」 「埼玉県警から、いちおうの報告は受けております。古田代議士は、お気の毒に、私設秘書を三人、いちどに失くされたそうで」  高林の声には、あらわな冷笑の波動があった。自分の立場がどうであれ、ライバルの失敗は、年代もののワインのように身心にこころよい。自分自身の屈辱に対する自覚が、奇怪な方向へゆがんで、他人の屈辱を望む心の火に風を吹きこんでいた。  老人は、しゃくれたあごを指先でつまんで何やら考えていた。 「もし仮に、古田が死ねば、その責《せき》を、竜堂家の兄弟に負わせればよい。公安事件では、とかくマスコミがうるさいが、刑事事件なら、警察発表を確認もせず信じこむ連中が多いからの」 「ご深慮おそれいります。にしても、古田代議士のなさりようは、しばしば常軌《じょうき》を逸します。今夜の件にしましても、警察の名をかたるやら、公道上で発砲するやら。利権あさりについては今さら申しあげませんが……」 「高林よ、家畜には餌をやるものだ。そして畜生のなかには、好んで腐肉《ふにく》を喰《くら》うものもいる。そのような輩《やから》に菜食主義を強要することもできまい」 「は……」  高林は深く一礼した。老人が古田を家畜よばわりしたことに、快感をおぼえた。老人にとって、高林自身が古田と差のない存在であるとは思わない。そのような感受性は、かつては存在したにしろ、いまは磨滅《まめつ》しきっている。 「ところでどうだ、夜食をつきあわぬか」  老人が卓上の銅の鈴を鳴らすと、藤色の和服姿の女がふたり、盆を運んできた。中国風の卵いり粥《かゆ》に、黒ずんだ肉の塊がそえられて、こうばしい香を嗅覚に送りこんでくる。 「豚の肩肉を薬味につけて唐揚《からあ》げにしたものだ。なかなかうまかろう」 「はあ、まことにけっこうなお味で……」  芸のない感想をのべる。 「豚の肉それ自体がよいのだ。餌が尋常ではないからの」 「松阪牛のようにビールでも飲ませているのですか」 「水子を食わせておる……」  老人の声は平然としていたので、高林はうっかりうなずいてしまい、一瞬の空白をおいて、ぎょっとした。 「み、水子と申しますと……」 「堕胎された胎児のことだ。東大を出て、そのていどのことも知らぬのか」  高林は箸をとりおとした。絶叫をおさえたのは、老人の前で非礼をはたらくわけにいかなかったからである。食道を駆けあがる不快感をおさえるため、口を片手でおさえたのは、どうしようもないことであった。 「小心者よな、冗談を本気にしたか」  老人は喇笑した。他者の失態や恐怖を、酒の着《さかな》にして楽しんでいた。高林はかろうじて両手を畳についた。 「見ぐるしいところをお目にかけました。ひらにご容赦くださいますよう」  被害者が加害者にあやまった。その醜悪な滑稽《こっけい》さを、高林は自覚していたが、老人の怪物的な邪悪さに対する恐怖のほうが、自尊心などをはるかに上まわった。老人が事実を語ったのだ、と、高林は直感していた。治安間題のエキスパートであり、非情な権力主義者である彼も、この老人の怪物性の前では、凡俗《ぼんぞく》の小市民であるにすぎなかった。 「共和学院と竜堂家の件、今後、何かと手数をかけることになろう。期待しておるぞ」  老人の声を頭上に聞きながら、高林は、こみあげる嘔吐感を、死物ぐるいでこらえていた。 [#改ページ] 第二章 ささやかな陰謀       ㈵  人間たちがつくりだす悪意や陰謀の嵐はともかくとして、自然の嵐はひと晩で通過し、東京の上空には、翌朝、おだやかな青空がひろがった。 「でも、この季節の空は、晴れてもあまり奥の深きがありませんね。何かこう、青いペンキを塗りたくったみたいです」  続《つづく》はそう評する。終《おわる》がじろりと兄を見て、 「……なんてエッセイストみたいなこと言ってないで、はやく歯をみがいてくれないかな。せまいんだからさ」  竜堂家の洗面所は狭くはないのだが、何のまちがいか、四人が同時に顔を洗うとなると、さすがに窮屈《きゅうくつ》である。まして上のふたりは平均的日本人より背が高く、手足が長い。 「こら、余《あまる》。きちんと歯をみがけ。誰も見てないと思ったら大まちがいだからな」  始《はじめ》にそう言われ、「はあい」と答えて、余は首をすくめた。いたずらな子犬のような動作だった。  一○歳ちがいの兄ともなれば、半分は父親みたいな存在である。まして彼らの父親は一〇年前に亡《な》くなったし、この長兄が、弟たちの通う学校の理事であり講師とあっては、余の心境からすれば、三冠王に立ちむかう新人ピッチャーみたいなものだ。さからうことなど、考えることもできない。  ところが、次兄の続や、三弟の終に言わせれば、「始兄さんは余には甘い」ということになるらしい。とくに、終にはその気分が濃厚である。 「おれ、説教されたことなんかないぜ。まずぽかりと一発たたいておいて、どこが悪かったか自分で反省しろ、だもんな。横暴の何のって」  終は不平を鳴らすが、たたかれてもけろりとして悪びれないし、深刻な、あるいは陰惨な悪事をはたらくわけでもないから、兄にとってあつかいづらい弟とはいえない。兄のほうも理不尽な行為をするわけではない。若いくせに家父長意識が強くて、それがときどき鼻につかないでもないが、竜堂兄弟のような境遇では、やむをえないといえるだろう。両親がいない、祖父母も亡くなった、まして竜堂家の血はどう考えても尋常なものではないのだから。  玄関のベルが鳴った。歯ブラシをくわえたまま、パジャマ姿の余がとんでいってドアをあける。ジーンズの上下にコットンシャツという姿の若い女性が立っていた。ショートカットとセミロングの中間に位置する長さの髪をして、繊細な目鼻だちが、くっきりとした線を形づくっている。 「こら、レディの前でそのかっこうは何よ、ちゃんと着かえなさい」  叔父夫婦のひとり娘である鳥羽《とば》茉理《まつり》だった。一八歳になる。今年、吉祥寺に近い青蘭《せいらん》女子大学に進んだ。母親の三割ほど美人度が高く、父親の七倍ほど明朗快活な女の子で、従兄弟《いとこ》どもの生活を文明的に維持するのが自分の役目だと信じている。自分自身の受験の前日にも、四人の夕食をつくりにぎて、ワインなど飲んで帰り、あぶなげなく合格してしまった。なかなか、なみの女の子ではないのだ。 「そりゃ、竜堂家の一族のなかでは、茉理《まつり》ちゃんが最大の傑物ですからね。始兄さんでさえ頭があがらないんですから」  続がそう評し、始も苦笑して否定しないくらいだから、終や余などは、ひたすら、彼女の前では、おそれいるばかりである。  茉理《まつり》は、玄関ホールに大きな紙袋を置き、用意したエプロンをその場で着こみながら、なぜともなく横隊に整列した一同を見わたした。 「みんな、朝ごはんはむろんまだよね」 「まだだよ」 「顔は洗ったわね。じゃあ、洗濯物を出して、かけぶとんを二階の廊下に干してから、食堂へいらっしゃい。朝ごはんのしたくをやっておくから」  てきぱきと指示しておいて、大きな紙袋をかかえたまま台所へはいる。竜堂兄弟のうち三人は階上へあがった。ただひとり、奇跡的に、すでにふとんを干していた始だけが、食堂のテーブルでトマトジュースの缶をあける。 「叔母さんは元気かい? ひと月ばかり会ってないけど」 「元気だけは充分だわね。うちの両親は学院を乗っとろうとしているの。わかりきっているのよね。欲が深いくせに度胸がないんだから、わたしにも、竜堂の本家にあんまり出入りするな、なんて命令するのよね。わたしが出入りしなきゃ、その分、乗っとりのスピードが加速されるとでも思ってるのかしら」  父母をこきおろしながら、茉理《まつり》は、じつに手ぎわよく、パンを焼き、目玉焼とほうれんそうのソテーをつくり、野莱スープを煮たて、テーブルに皿をならべる。二階から兄弟たちがおりてきたときには、食堂は、食欲をそそる匂いにみちている。 「だいたい、自分たちが無理をかさねて学院を乗っとったとしても、娘の代でぽしゃる[#「ぽしゃる」に傍点]にちがいないってことが、わからないのかしらね。未来を予測できずに現実を処理しようなんて、もう、夢が糖尿病にかかってるのよ」  学院乗っとりの野心家も、実の娘にかかっては形なしである。 「ま、分不相応の夢を、一時的にも実現できるとしたら、幸福だと思わなきゃ」  こう勢いよくこきおろされるのを聞いていると、竜堂家の兄弟たちも、いささか叔父たちが気の毒になってくる。 「ま、そうだけど、あんまり叔父貴や叔母さんを憎む気になれないんですよ」 「そうそう、一所懸命だしさ、あの夫婦。目標にむかって努力する姿は美しい」  半分は、茉理《まつり》をからかうために言っているのだが、まるきり嘘というわけではない。理事会から追放されそうな始にしてからが、あまり叔父を憎む気になれないのだ。はっきりいって、好きにはなれないが、憎むというには、叔父はものたりない男なのである。続が叔父に対してきつい[#「きつい」に傍点]のは、半ば以上、意識しての意地悪なのだ、 「それよりも、茉理ちゃん、この前、初対面のどこかの学生にプロポーズされたって聞いたけど、ほんとうですか?」  そう訊ねる続の前に。サラダボールを押しやりながら、茉理《まつり》はうなずいた。 「合同コンパの翌日に、そいつの母親というのから電話があったのよ。うちの息子と交際してくれ、行く行くは結婚してほしいって。わたしは言ってやったわよ。自分自身の口でプロポーズもできない男と結婚するほど、悪趣味じゃありませんって」 「いまどきめずらしい母親孝行なのかもしれんぜ」  と、始が言う。 「そうね、そして、離婚するときも母親の口から言わせるのよ、きっと」  茉理《まつり》の声はにがにがしげである。 「わたし、予言してもいいけどね、日本はきっと若い男から滅びはじめるわよ。このごろ、ちょっと、信じられないくらい惰弱《だじゃく》な奴が多いものね」 「おれも若い男だけどね」 「あ、始さんは例外よ。始さんは、核戦争後の地球でだって、りっぱに生きていけるわ」 「……ほめてもらっていると思いたいところだね。むりにでも」 「ほめてるのよ、もちろん」  茉理《まつり》が始の顔を見やる目には、けっこう真剣な光があった。 「父がはたらこうとしている悪事はともかくとして、始さんに、ちっぽけな学校法人の理事なんて、たしかに似あわないわ。父と張りあったりするより、もっと大きな事業にそなえて、英気をやしなってほしいの、わたしとしてはね」 「大事業ってどんな?」  と訊いたのは、三枚めのトーストをほおばった終だが、それには誰も答えず、興味しんしんの態《てい》で余が訊ねた。 「始兄さん、理事をやめさせられるの?」 「たぶんね」 「じゃあ、来月から、どうやって食べていけばいいんだろう」 「そうだな、新聞配達やって牛乳配達やるだろ。続兄貴にはホストクラブに行ってもらってさ、始兄貴は健康だとさまにならないから、病気になってもらう」  終が言うと、余がすっかり喜んで、 「それで、せきこみながら、こう言うんだろ。おまえたちに迷惑かけてすまねえ。すると答えて、兄《あん》ちゃん、それは言わない約束だろ……」  ふたりは同時に噴きだし。余は、すこし中身の残っていたトマトジュースのコップをひっくりかえしてしまった。 「危機感がないんですね、君たちは」  続があきれたように弟たちを見やって、余の頭上にタオルを放りなげた。  弟たちの笑話の種にされた始は、じろりと彼らを横目でにらんだものの、べつに怒るでもなく、茉理《まつり》にむかって肩をすくめてみせた。 「まあ、いいさ。おれはいままで日本で一番若い学校法人の理事だったけど、今度、日本で一番若い解職理事になるわけだ。茉理ちゃんの許可をもらったことだし、しばらく英気をやしなうつもりで、ぐうたらしてもいいな」 「頭から決めてかかっているけど、理事会で事態が逆転する見こみはないんですか、兄さん?」 「ないね。夕ベのことを思いだしてみろよ。形勢が不たしかなうちに、叔父さんが宣戦布告すると思うか?」  ここで終が口をはさむ。 「今度の理事会には出るの?」 「そりゃまあ、解任されるまでは、まだ理事だものな。給料だってもらっているしさ」 「えっ、給料もらってたの!?」 「あたりまえだろ。でなきゃ、第一、さっきのお前の笑話だって成立しないだろうが」 「そりゃそうだけど、出すほうは腹がたつだろうなあ」 「おれもおまえに小づかいをやるたびに腹がたつよ。精神衛生のために、おまえに小づかいをやるのはもうやめるとしようか」 「そ、それは悪虐非道ってもんだと思うな」  終がぼやいた。  茉理《まつり》が、自分のトーストをちぎって口に運びながら、 「父はたしかに勝算ありと信じてるわ。誰かに信じこまされたんでしょうけどね。単なる二代目院長で終わる気はない、とか、えらそうなこと言ってるわ。始さんを追い出して、いよいよ改革とやらに乗り出す気なのよ」  つねづね叔父は主張していた。 「人文学部と政治経済学部だけの小規模校では将来の発展はない。八王子の広大なキャンパスに移転するに際して、国際関係学部、情報学部、経営管理学部、技術科学部を新設し、学生数を三倍増する」——と。  小規模校であることが、祖父の理念のひとつだったとは思うが、時代は変わる。キャンパスの移転と規模の拡大が現代の要請であるとすれば、それはそれでよい。ただ、移転事業にともなう利権をめぐって、肉食獣どもが暗躍するのが、始にとっては不愉快である。  叔父の背後に、悪名高い代議士古田重平がひかえていることを、始は知っていた。理事会を威圧するために、叔父がその名を出したことが一度ならずあるし、古田自身が黒いベンツで学院本部に乗りつけたこともある。どう見ても、最終的に食い殺されるのは叔父だ、と、始は思うのだ。  それにしても、前院長の影響を緋除することに、靖一郎はたいそう熱心であった。  三万坪のキャンパスは、二学部を擁《よう》する大学、さらに女子短期大学、高等科、中等科、幼稚園もあわせた敷地としては狭いが、新宿新都心からほど近い距離にある。売却すれば、巨額の利益をもたらすことは確実だった。 「八王子市北方に五〇万坪の土地を確保し、全キャンパスを移転する」  というのが、院長である鳥羽靖一郎の構想である。  共和学院の理事会は、院長、常任理事二名、理事九名、監事二名の一四名で構成されているが、院長のこの構想に反対しているのは、始をふくめて三名でしかない。七名が賛成し、四名は中立という名で形勢を傍観していた。これこそ、その四名の無能をしめすものだ、と、始は思う。彼の見るところ、形勢なぞとっくに決まっていて、逆転しようがないのだ。理念ないし意地によって反対をつらぬくのでなければ、さっさと大勢に順応したほうがいい。まあ、自分自身の一票を高く売りつけるつもりでいるのかもしれないが。  それまで院長室にかかっていた「自由奔放」という額がはずされ、「勤勉、至誠《しせい》、努力」という現職文部大臣の額にかえられたとき、始は、叔父の精神の卑小さに、いっそあわれみをおぼえたほどである。彼は叔父に、額を引きとることを申しでた。最初、靖一郎は甥の要求をこばもうとしたが、さすがに自分の狭量《きょうりょう》に気がさしたか、額を始に引きわたした。それを始は持ち帰って、二階の客用和室の壁に飾っている。  だが、苦笑ですませることができないのは、始にかわって、あたらしく選任されるであろう理事の顔ぶれである。どうせ古田代議士の息がかかった人間であることは、疑問の余地もないが、それがはたして最後まで、靖一郎叔父の味方でいるかどうか。 「たとえば、古田代議士が、今度は叔父さんを追い出して、学院を完全に乗っとることだってありえます。そのとき、ひとつの手段として、兄さんを呼びもどし、あやつり人形にしたてて古田が実権をにぎるということもありえますね」  続がそう言ったことがある。一九歳の未成年とは思えない読みだが、始は、古田はもっとべつの手段を使うのではないか、という気がしている。まあ、いったん始が追い出されたとしたら、追い出した張本人である靖一郎叔父の将来を思いわずらってやるなど、ばかばかしいことであろう。叔父は、昨夜、竜堂家をおとずれる以前から、理事たちにつぎのように言ってまわっているのだ。 「始君に対しては酷な言いかたになるが、創立者の孫だからというだけの理由で、教育者として、また学校経営者としての経験と見識にとぼしい人物を、理事の一員につらねておくことは、学校のためにも本人のためにもよくない。将来の復帰を前提に、一時、理事の座をしりぞいてもらい、人間修業をつんでもらうとしよう」  りっぱなメッキだ、と、始は思う。表面的に異議のとなえようがない。  辞《や》めさせるつもりなら辞めてやるさ、辞めたところで、さしあたり食うに困るわけではない。始はそう思うのだが、それがまた、「親の遺産があるものだから、あてにして」と悪口の種になる。たしかに事実ではある。まあ遺産といっても大したことはない。この家と土地、それに多少の有価証券と生命保険金、四人の名義の簡易保険ぐらいのものである。二年も無職でいれば、たちまち食うにこまることになるだろう。  始は、以前から、自分たち兄弟が、この時代にあって異端の存在であるように思っていた。兄弟が持っている、常識をこえた能力もだが、生まれた時間と空間そのものが、まちがったものであるような気がしてならなかった。中国の説話によく見られる「天界から人間界への追放者」というやつだ。茉理が言うように、始たちには、何か大きな、なすべき事業が用意されているのかもしれなかった。むろん、単なる妄想であるという可能性もあるのだが。 「朝食がすんだら、お皿やカップはキッチンに運んでおいてね。そしてさっさと出かけて、昼食までは帰らないこと! 掃除と洗濯のじゃまだから」  四人兄弟は、すなおに茉理の命令にしたがった。こういうとき、彼らの従姉妹《いとこ》には、軍司令官の風格があって、服従する以外にない。第一、彼女の善意と家事処理能力に対して不平を鳴らすなど、罰あたりな話である。こうして、九時三〇分には、兄弟はそれぞれ服装をととのえて玄関ホールに立っていた。 「終兄さん、どこへ行く?」 「そうだな。新宿で『なつかしのSFアニメ大会豪華無節操六本立』をやってるぜ。時間つぶしにはなるだろう」  続は区立図書館へ出かけ、始は高田馬場の、行きつけの古書店に顔をだす。  茉理は広い家の掃除にとりかかった。そして、この時刻、茉理に「欲ばかり深い」と批評された彼女の父親は、古田代議士の家に呼ばれて、その玄関をくぐっていた。       ㈼  古田代議士の、東京での住居は、干代田区四番町にある。この男の資産のほとんどがそうであるように、大きな椿の樹を持つ三〇〇坪の邸宅も、法律と常識が眉をひそめるようなやりくちで、彼の手に落ちたのだという。その噂を否定する根拠は、鳥羽靖一郎にはない。  それにしても何の用があるのだろう。  すでに、古田の第一秘書である奥島健三が、始の後任として共和学院の理事に就任することが決定している。彼は主人である古田より紳士的な外見を持ち、古田よりおだやかな口調で話をすることができた。腹話術の人形としては、まことにけっこうな人物で、古田の意向は彼を通じて大きく反映されるだろう。  その上、何を要求しようとしているのか。鳥羽靖一郎は、不安と不満を禁じえなかった。共和学院という義父の財産は、彼の両手の上を通過するだけで、まっすぐ古田の懐《ふヒニろ》に飛びこんでいくことになりはしないか。そんなことになってはたまらない。  応接室に巨体をあらわした古田は、あごをしゃくるだけの無礼なあいさつをすると、完壁に似あわないルイ王朝風の椅子に腰をおろした。ゴルフウェアの胸ポケットから、一枚の写真をとりだし、イタリア大理石でつくられた応接テーブルの上に放りだす。若い男の顔が正面をむいていた。 「どうだ」 「はあ……?」 「その写真の男だ。どう思う」  そう言われて、靖一郎は、あらためて写真の主を見つめた。二〇代前半の、力強いというより暴力的な印象を与える若者で、目つきはするどいというよりけわしく、鼻とあごの線がたくましく、分厚い唇と脂《あぶら》ぎった皮膚を持ち、髪は短い。 「古田先生のお子さんでいらっしゃいますか」 「そうだ。いま二三歳でな、興国大学商学部の四年に在学しとる」  ということは父親に似て非秀才だということだな——靖一郎は意地悪く、そう考えた。むろん表情には出さない。そこへ、古田の声が投げつけられてきた。 「おまえには一八歳の娘がいるそうだな」 「は、はい」 「どうだ、未婦になればいい釣《つ》りあいだと思わんか」  靖一郎の神経がひきつった。これはとんでもない奇襲攻撃だった。自分の娘と、古田の息子とを結婚させるなど、悪夢というもおぞましい考えだった。押しだした声もひきつった。 「ありがたいお申し出ですが、古田先生、娘は大学生になったばかりでございますし、まだ花嫁修業もしておりません」 「わかっとる。息子もまだ就職もしとらん半人前だ」  安堵《あんど》の思いが靖一郎をつつみかけたが、一瞬で、それは打ちくだかれた。 「……だから当面は婚約だけでよかろう。結婚は、息子が就職し、おまえの娘が大学を卒業してからにすればよい」 「しゅ、就職先はお決まりで……?」 「共和学院長の秘書だ。三、四年も学校経営の勉強をして、結婚前に理事の席につけば、そう世間的に見劣りせんだろう」  靖一郎は、半ば失神状態におちいった自分を自覚した。最悪の想像が実現しつつある。しかも極彩色の化粧をほどこして。いま彼の目前に倣然《ごうぜん》としてすわっているこの男は、猛悪なだけでなく、限界がないまでに貪欲《どんよく》であった。はでな背広を着た肉食性恐竜だ。靖一郎の地位も、資産も、さらに娘までも、古田は強奪しようとしているのだ。恐怖と後侮が、靖一郎の全身に潮のようにみちて、彼は呼吸に困難をおぼえた。 「ありがたいお申し出ですが、ですが、娘の意思を確認してみませんことには、私めの一存でご返事はいたしかねます。何しろ気が強く、やすやすと親にしたがう娘ではございません」  靖一郎の逃げ口上を、古田は、鼻先で笑いとばした。 「おまえの娘には、躾《しつけ》というものをしてないのか。親にしたがうのが日本女性の婦徳《ふとく》であり、幸福ではないか。わしの娘なら、喜んで、良縁を親に感謝するだろうて」  つごうのよすぎる台詞《せりふ》をはいた後、古田の両眼に疑惑の光がさした。 「それとも、もしかして、おまえの娘には、好きな男でもいるというのか」  これは意外な発想であった。だが、一八歳になる娘に、恋人がいても何ら不思議ではない。靖一郎は、古田の疑惑を利用することにした。とにかく、架空のものであっても、古田父子のよこしまな恋路に障害物をもうけなくてはならない。 「はあ、はっきりとは申しませんが」 「……まさか、竜堂家の兄弟のひとりではないだろうな」 「さあ、そこまではわかりませんが……」  これは正直なところである。このとき、靖一郎は、古田父子という肉食獣から、ひとり娘を守るために、甥たちに牧羊犬《シェパード》役をゆだねるべきか否か、決心をつけかねていた。そして、牧羊犬が肉食獣に食い殺される危険に思いいたって、さすがに動揺した。 「ふ、古田先生、まさか、甥の身に何かなさろうとおっしゃるのでは……」 「ふん、何を恐れとる。解任された理事だろうが、学生だろうが、けんかや事故に巻きこまれることが不思議ということもあるまい」  古田は粗暴な表情ではきすて、不機嫌そうに、ぬるくなった茶を口に運んだ。靖一郎は、口のなかが乾《ひ》あがるのを自覚しながら、茶を飲む気にもなれなかった。始にしても、その弟たちにしても、気に入らない甥どもではあるが、殺すとか傷つけるとかまで考えたことはない。学院を横領できれば充分であって、流血などを生じては後味が悪すぎる。  靖一郎には彼なりの打算があった。娘の茉理は。彼にとって貴重な人的資源である。最大限に有効に生かさなくてはならない。むろん、父親として、娘の幸福を頭う心情はあるが、それと同等以上の比重で、親の満足もえることが必要だった。  三人ばかり、すでに候補を選んでもある。正確には、候補の父親を、である。二度にわたって文部大臣をつとめた保守党の参議院議員。東京都の教育委員をつとめる、大銀行の副頭取。東京近県の国立大学の学長で工学博士。教育界において、鳥羽家と共和学院との地位を強化するためには、まことに望ましい顔ぶれといえた。  だが、古田代議士の息子とは! 興国大学は、社会的な評価においても、学力においても、共和学院よりはるかに劣る。二三歳でまだそこの学生ということは、浪人なり留年なりしているということだ。東大に入学するとでもいうならともかく、興国大学などで——と、靖一郎は侮蔑せずにいられなかった。  ただし、その侮蔑は。恐怖および絶望と、暗黒の三位一体《さんみいったい》を形成していた。どうやれば、古田のとほうもない申し出を拒否することができるだろうか。ようやく始を追放できると思ったら、裏門からもっとたちの悪い奴が侵入してくるとは。  古田代議士の長男は、すでに、父親の選挙区で屈指《くっし》の素封家《そほうか》の娘と結婚している。いずれその財力と政治勢力を背景に、父親の地位を受けつぐことになるであろう。いちおう一流私立大学の経済学科を卒業し、大手の石油会社で、まもなく係長の地位をえようとしていた。まず文句のつけようがない青年である。  次男の義国《よしくに》は、父親のコピーだった。それも、どちらかといえば組悪なコピーだった。暴力や権力は、父親にとっては、まがりなりにも政治的な武器であったが、息予にとっては、単なる兇器でしかなかった。  やがて、返答をあいまいにしたまま、靖一郎は古田家を辞したが、彼の頭上で、空はむなしい青さを広げていた。       ㈽  竜堂家の屋根裏には、納戸と、天窓のついた一二畳ほどの板の間がある。これが末っ子の余の部屋である。昨年まで終の部屋だったが、弟が中学生になったとき、部屋の所有権が交替した。終も、中学生になったとき、続からこの部屋を「相続」した。だいたい、「屋根裏部屋」をきらう子供はいないから、公平を期するためにそうなったのである。  現在、終の部屋は、余の部屋の真下にある。二階の東南角だ。二階には他に、兄ふたりの寝室と、客の宿泊に使われる八畳と六畳のつづき和室がある。  表面的に平和な数日がすぎて、四月にはいると、新高校一年生の終としては、多少は勉強に心がけなくてはならない。極端なところ、口うるさい長兄の手前がつくろえればいいのだが、これがなかなか容易ではないのだった。  始は、世界史の教師としては——あるいは、しても[#「しても」に傍点]——型破りだった。試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである。全部、記述式の問題で、自筆のノートを自参してもいいのだ。 終としては、型どおりの授業をやってくれる日本史などのほうを選択したいのだが、始も続も、終は世界史を選択するものと決めてかかっている。 「年代を知りたければ年表を見ればいい。単語を知りたかったら辞書を使えばいいんだ。だいじなのは自分のテーマと方法をもって勉強することで、点数のため必死に数字や名詞だけつめこみ暗記するなんて、人生に何の意味もない。ノートを自力でつくることがたいせつなんだから」  正論である。ただし、逆にいえば山をかけての一夜づけができないことになる。中学時代、山かけ名人として鳴らした終には、それがせつない。 「中国史における長江の役割について記せ。古代ギリシアにおける都市国家《ポリス》について記せ……こんな問題、一行や二行で書けるはずないよな」  終はため息をついたが。まあ、あせることはない、と思う。どだい兄たちのように大学で歴史を専攻する気もないのだ。単位さえとれればいい。第一、始は理事につづいて講師もやめるかもしれないのだ。  窓をあけて、終は夜気を吸いこんだ。昼の雨が霧にかわって、湿った大気の手が、終の顔をなでた。こういう天候だから、遊びに出る気にもなれず、身体も気分も調子が狂って、つい予習などしてみようかという、妙な考えをおこしてしまう。  ひょいと下を見ると、庭に人影が見えた。それが、パジャマを着た余であることに、終はすぐ気がついた。 「あれ、余のやつ、また病気が出たのかな」  終は、まばたきとつぶやきを同時にやってのけた。  兄たちと、従姉《いとこ》の茉理しか知らないことだが、余には夢遊病の気があるのだ。小学校にあがる前には、廊下に出るぐらいのことは珍しくもなかった。階段からころげおちて、祖父を下じきにしたこともある。ここ二年ぐらいはおさまっていたが、再発したのだろうか。  長兄の始は、いつも、余に夢の内容をくわしく話させて、ノートに記録している。終が見せてくれというと、「購読料をよこせ」という言いかたで拒否するのだった。それはないよな、と、終は思う。数日前には、余が誘拐されかけたのを救出したのに、兄たちからみれば。いつまでも半人前らしい。とにかく、余には、当人の意思とはべつに、奇異なところがさまざまあって、死んだ祖父母も、末の孫のことを、一番気にしていた。  何にしても、夜中に夢遊病で出あるく弟を放っておくわけにはいかない。勉強を中断する大義名分ができて、終は張りきった。  時計は一一時すぎて、四月六日も残りすくない。足音を忍ばせて一階におり、スニーカーをはいて玄関を忍び出る。すでに余は、門から道路へ出ていってしまっていた。 「哲学堂にでも行くのかな? ちょっとまずいぞ、そいつは」  哲学堂がまずいのではない。竜堂家からそこへ行くまでには、新青梅街道を横断せねばならないし、夜間にはしばしば大型トラックが通過する。トラックが余にぶつかって大破でもしたら、たいへんではないか。  この心配は、竜堂家以外の者にはわからない。自分たちが、さまざまな意味で、一般の人たちと異なることを、終も兄たちも知っている。一番おとなしいのは、末っ子の余だが、じつのところ、もっとも危険なのは、おっとりした気性のこの末弟なのであった。  哲学堂公園は一万五〇〇〇坪をこす面積がある。この季節、夜桜を見物する人も多いが、雨あがりの霧の夜とあっては、さすがに人影もない。木立があり、門や建物が複雑に配置されて、黒々と影をわだかまらせている。  トラックにも出あわず、余と終は公園にはいりこんだが、繁みのなかで熱心にうごめいている男女の姿を、終は見出した。 「春先からようやるよ」  感心しながら、終は、弟のあとを追った。  終自身には夢遊病の経験がないし、兄たちの話をもれ聞いたところでは、通常の夢遊病とも微妙にちがうようだから、何ともいえないが、余の足どりには、それほど危げがない。勉強もこんな具合に無意識のうちにやれないものかな、と、終は、誰でも考えるようなことを考えた。  雨と霧に湿った土は歩きづらい。身の軽い終でも、一歩ごとに地面に靴跡を残してしまう。ふと、終は気づいた。足跡は彼の後方に残るだけで、前方にはないのだ。終の視線が、弟の両足に集中した。靴下をはいただけの余の両足は地に着いていない。足と地面との間に、指三本を横たえたほどの空間がある。 「空中浮揚だ……」  終は息をのんだ。その現象自体は、彼にとって珍しいものではないが、他人に見つかると、いよいよまずい。いまさらに周囲を見まわしたが、他人の視線はなかった。そうのんびりとしてもいられない。強引にでもつれて帰らないと、何がおこるやら知れたものではなかった。 「しかし、夢遊病で空を飛ぶ弟を持っているなんて、東京でも、うちの兄弟ぐらいだろうなあ」  東京どころか、日本でも、世界でも、そんな存在は竜堂家の兄弟ぐらいのものであろうが、TVに出演して自慢するわけにもいかないのが残念である。  ……怒声がひびいた。しげみの中から。男が立ちあがって、ズボンをずりあげながら、お楽しみを邪魔した少年をロぎたなくののしっている。余が、しげみの傍を通るとき、男の足に触れてしまったようであった。  男は、学生とも勤労者とも思えず、おそらく、組織的[#「組織的」に傍点]自由業者であろう。けばけばしい原色のポロシャツの胸ポケットから、夜だというのにサングラスをとりだしてかけたあたり、基本に忠実な男なのかもしれない。女の、制止する声も聴こえるが、それがいっそう、男を好戦的にしたようで、荒得しく、余の胸をつきとばした。なめとんのか、このガキ、というわめき声が終の耳にとどいた。  走りだそうとした終の肩を、誰かがかるくおさえた。気配をまったく感じさせないという一事で、手の所有者の正体がわかった。 「あ、続兄貴……」 「ちょっと、ようすを見ましょう。いま出ていくと、かえって面倒かもしれませんよ」  続の片手には、余のカーディガンとサンダルがぶらさがっていた。このあたりの何気なさが、終が兄におよばない理由である。  男は、余の襟首をつかんで、公園の奥のほうへ引きずりこもうとしていた。気にくわない、無抵抗の相手に、徹底的に制裁を加えようというのであろう。だが、彼はふと、あることに気づいた。 「な、なんだ、このがき[#「がき」に傍点]……宙に浮いてやがるぜ」  余の足が、地面から五センチほど浮いているのを、男が見つけたのである。つぎの瞬間、男の手が余の頬に鳴った。自分に理解できないことを、暴力で解決しようとするタイプであるらしかった。奇術でも使っている、と、貧しい知識で考えたのかもしれない。二発めを振りおろそうとして、その手がとまった。  真珠色にかがやく点が、余の頬にあらわれていた。  それは、竜堂家の兄弟たちにとっては、けんのん[#「けんのん」に傍点]さを意味する信号だった。終は一歩踏み出しかけたが、続が、その肩をおさえた。  男は、いまや狼狽していた。彼に威嚇《いかく》された相手は、幾とおりかのパターンに分類される反応をしめしたのに、余はどのパターンにもあてはまらないのだ。薄気味の悪さなどという以上のものを感じたにちがいない。恐航寸前の気配が男の全身に流れた。口のなかで何かつぶやき、季節に似あわない汗を大量に流しはじめながら、とまった手を必死に動かしかける。  だが、男の表情と動作が、完全に氷結してしまった。余の両眼を見た瞬間に、そうなってしまったのだ。とざされていた瞼が開くと、黄金色の瞳孔が、男を正面から見すえた。男は、自分が失禁したことを自覚しただろうか。統と終が駆けよった瞬間に、余がはじめて動いた。右手が男のほうに差しだされる。  余が片手をかるく差しだしただけで、男は一〇メ−トルほどの距離をふきとんだ。余の掌《てのひら》から、目に見えない巨大な掌がもうひとつ出現して、男をつきとばしたようだった。男は頭から、つげ[#「つげ」に傍点]の大きな植込みにつっこみ、幸福にも、そのまま失神した。  宙に浮揚したまま、すっと前進しようとする弟の前に、終がとびだした。  その瞬間、終は、自分の身体が、空中にはねあがるのを感じた。トランポリン上で跳躍したのと、ジェットコースターに乗って無重力状態になったのと、その中間の気分だった。目の前に、樹の梢《こずえ》が出現する。とっさに片手を伸ばしてそれをつかみ、両足をひっかけて、それ以上遠くへとばされるのを、ようやく阻止する。  「余君、もういい、やめなさい!」  地上では、続が余の両腕をおさえていた。前方からは危険なので、後方にまわっている。弟の頬から真珠色のかがやきが消え、続の掌につたわってきた微妙な波動が消減すると、余は肩ごしに振りむいて兄を見た。 「……ああ、続兄さんか」  いささか頼りなげに頭を振る。 「夢を見ていたんですか、余君?」  続のことばは、質問ではなく確認だった。  余がうなずくまでに、やや間があった。樹上に、不思議なカで放りあげられた終が、ぶつぶつ不平を鳴らしながら、京劇《きょうげき》の俳優のように軽い身ごなしでおりてきたとき、余は、文字どおり夢からさめた表情で、続が持ってきてくれたサンダルをはいていた。  続は、兄の部屋の扉をノックした。読書に夢中になると、多少の物音など聴こえなくなる兄なので、かなり強いノックをくりかえす。ようやく返答があった。始の部屋は広く、空気はやや冷たく乾いている。重々しい樫のデスクに漢文の書物がひろげられていた。 「読書中だったんですか」 「うん、『八犬伝』の種本をちょっと」 「水滸伝ですか?」 「いや、新五代史《しんごだいし》だ。盤瓠《ばんこ》という犬が、飼主のために敵将の首をとってきて。約束どおり飼主の姫を妻にするという伝承が載《の》ってる」 「八房と伏姫ですね」 「もっとも、こっちはハッピー・エンドだがな……で、余がどうかしたのか」  本を閉じると、始は後ろむきに椅子をまたいだ。続もソファーに腰をおろす。事のあらましを続が話しおえるには、三分でたりた、 「……というわけです。まあ、大したことにはなりませんでした。やくざがひとりのびてしまったのと、終君が木の枝ですり傷をつくったくらいですみましたけどね」  始は椅子の背を指先でたたいた。 「余が中学にはいって以釆、そんなことはしばらく絶《た》えていたんだがな」 「富士山だって、一〇〇年に一度くらいは噴火しますよ。今夜の件なんて、後日になってみれば、ごくささいなことでしかないかもしれません」  始が身動きすると、椅子が、抗議するようにきしんだ。 「覚醒《かくせい》が近づきつつあるということかな。死んだ祖父さんが言っていた」 「覚醒、ですか。そのことで、余君自身が、ちょっと気になることを言いましたよ。いままで見ていたのが夢なのか、目がさめてからのことが夢なのかわからないって……」  始は、指先であごをつまんだ。 「荘子《そうじ》[#「荘子《そうし》の著書が荘子《そうじ》。なのでここは「そうじ」で正しい]だな。我《われ》、夢に胡蝶《こちょう》となるか、胡蝶、夢に我となるか……。漢民族ってやつは大したもんだ。二五〇〇年も前に、|内 宇 宙《インナー・スペース》と実存との関係を哲学に昇華させていたんだからな」  書棚に視線を投げる。祖父が生前に集めた洋書や漢籍が、独特の匂いを、兄弟の嗅覚に流しこんでくる。 「それにしても、どうも気になる。余の誘拐をたくらんだ奴らは、結局、何が目的だったんだ?」 「それは余君の覚醒を防ぐためでしょう」  始は小首をかしげた。 「と、おれも思った。しかし、ものは考えようでな、刺激はつねに一定方向から来るとはかぎらない」 「すると余君の覚醒をうながすために、危害を加えるというんですか」  ソファーの上で、続は、長い脚を組みなおした。 「でも、そんなことをして何になるんでしょうね。第一……」 「第一?」 「覚醒したらどうなるのか、ほんとうのところ誰にもわかっていないんですからね。ぼくらにも。それとも、敵にはわかっているんでしょうか」  余の誘拐をたくらんだ連中を、敢と即断はできないが、このさい他に呼びようがないのだ。 「敵が動く、こちらがそれに対応する。そういう形で、しかたないんじゃないでしょうか。ぼくらの立場は、野球でいえばバッターなんで、ピッチャーが投げてこなきゃ何もできませんよ」 「ピッチャーがね」 「制球の悪い、しかもビーンボールを投げるのが好きなピッチャーですがね」 「監督は誰だろう」 「監督……ですか?」 「こういうとき、敵方には、何でも知って事態をあやつっている大物がいるものさ。関越自動車道の件は、とうとうマスコミには出なかったし、よほど勢力のある奴がからんでいるんだろう」  始は、ふと考えた。あるいは、靖一郎叔父や古田代議士の策動も、根はそこにつながっているのだろうか、と。続が前髪を指先でかきあげて、 「でも、ほんとうに、どんな利益をめざしてるんでしょうね、そいつらは」 「私利私欲のために悪事をはたらく人間なんていないさ。ヒットラーがユダヤ人やスラブ人を四〇〇〇万人も殺したのは、ゲルマン民族の千年王国を地上に建設するためだ。世のなかに悪人なんてひとりもいない、正義の味方で満ちあふれているから、こういうすばらしい世界ができあがったのさ。余を誘拐しようとした連中も、たぶん、正義感に燃えているんだろうぜ」  始は目に見えない敵にむかって毒づいてみせた。そして、彼自身は知りようもなかったが、彼の結論はほぼ正しかったのである。 [#改ページ] 第三章 迷惑な招待状       ㈵  ……地平線上に雲が走っている。大地には一木一草もなく、琥珀《こはく》と瑪瑙《めのう》をくだいて混在させ、それに硫酸をそそいだように赤黄色く煮えたち、蒸気を噴きあげる。  太陽は黒鉛の円盤となって、コロナだけがそれを黄金色に縁どっている。天空全体は底知れぬ淵を拡げたように青黒く、氷をくだいてまきちらしたかのような星々が、雲の流れる間から冷然と地上を見おろす。  大地の亀裂を、岩と岩の間を、強風がほえたける。雲がたれこめ、白と黒と灰色の渦まくなかを雷光が走る。落雷が大気と大地を裂きくだき、大地の一角から炎と煙が噴きあがり、溶岩が地から天へ灼熱《しゃくねつ》した剣をつきあげる。  それらの風景すべてを圧して、光りかがやく長大なものが天の一角を横ぎる。蛇に似ているが、蛇ではない。角や肢《あし》があるように見えた。  後世の、知識ある者は、それを「竜」と呼んだであろう。  正確には、それは、竜の形状を有するエネルギーの巨大な塊であったかもしれない。色彩と光と闇が乱舞し、渦まき、大気がきしり咆哮するなかを、真珠色にうろこをかがやかせながら飛びめぐる四匹の巨竜。それが天の高みへと上昇し、上昇をつづけ、ある一点で闇がはじけると、白く脈うつ光が視界を灼きつくし、そこで余《あまる》は目がさめるのだ……。  末弟の余が見る夢は、同一のものではないにしても、背景に共通性があることを、続《つづく》は兄から聞いていた。三弟の終《おわる》が知りたがるので、続はそのことを話してやり、いろいろと意見を交換したこともある。  もっとも、このふたりの会話は、なかなか最後までシビアにいかないので、たちまち終が言いはじめた。 「奇妙な夢なら、おれも見たことある。この前のなんか、すごかった」 「そうですか」 「誠意のない返事だなあ、どんな重要な予知夢かしれないのに」 「わかりましたよ。どんな夢なんです?」 「昼寝からさめたらさ、まだ夕方にはなってないのに。真っ暗なわけ。で、窓からは新宿の夜景が見えるんだ。照明《あかり》をつけようと思ってスイッチを押したら、明るくはなったんだけど、それが電灯がついたんじゃなかったんだ」 「何だったんです?」  と問う声は。九九パーセントの義務感と一パーセントの好奇心で構成されていた。 「提灯《ちょうちん》だったんだよ! それも丸いやつでなくてさ、こう、長い、円筒形の……」 「小田原提灯ですか?」 「そう、それ。いつのまにか部屋のなかに洗濯ローブが二本はりわたされていてね、それがオレンジ色の光を発しながら、ロープウェイみたいに、すいすい行ったり来たりしているわけ」 「…………」 「そのうち音楽が聴《き》こえてきたんだよ。これがまた意表をついたね」 「どんな音楽?」  もはや百パーセントの義務感にささえられて、続が熱のない声をだす。 「それがさ、意外や意外、茶つみ歌だったんだ。茶つみ歌」 「夏も近づく八十八夜……というあれですか」 「そう。その音楽にあわせて小田原提灯が行ったり来たり。あまりのことに感心するうち、目がさめてしまった」 「たしかに。あまりのことですね」  続はコーヒーセットをかたづけて立ちあがりかけたが、弟のほうは熱心に奇夢を分析しようとして、さらに話しかけた。 「ねえ、この夢、どんな意味があるんだろう、地球と人類の未来を予知してるとか、そういうことかなあ」 「ぼくはちがうと思いますね」  続は、重々しく断言した。 「つまりね、終君、ひとつには、もっとまじめに試験勉強するべきこと、もうひとつには、兄たちをうやまい、弟をいたわり、人間としてりっぱに生きるようにという教訓のあらわれです。さしあたり、英語の勉強でもするんですね」 「不合理な結論だなあ」と弟はぼやいた。  新挙期の定例理事会で解任されることは、既定の事実だったので、始《はじめ》は学院の理事室に行って、自分のデスクの整理をした。抽斗《ひきだし》のなかにつまっているのは、理事として必要ないくつかの書類や資料を除くと、個人的なものばかりで、大半はがらくたである。叔父はどう打算の数式をたてているかわからないが、二度とこのデスクを使用することはあるまい。その後、院長室に顔を出して、叔父に、「お世話になりました」とあいさつした。世のなかには必要な形式というものもあるのである。もっとも、形式の最後の段階で、皮肉が口をついてでたのは、若さがさせたことであっただろうか。 「ですが、叔父さん、いや、学院長先生も、とんだ手数をかけたものですね。最初からぼくを理事にしなければ、解任する手間もいらなかったでしょうに」  靖一郎は白っぽい目で甥を見やり、半ばひとりごとのようにつぶやいた。 「……君を理事にすることは、前院長との間の約束だったからな。それを破るわけにはいかなかった」 「辞《や》めさせないという約束はしていないというわけですね」  言ったあとで、始は、自分自身の皮肉に、撫然《ぶぜん》とした。奇妙におどおどした、勝利者らしくない叔父のようすを見ていると、自分のほうこそが弱い者いじめをしているような錯覚にとらわれかけたからである。これから叔父も苦労するだろうな、と思うと、同情したい気分すらあるが、追放される身で、それもばかばかしい。講師のほうも、いつ辞職させられるか知れたものではなく、客観的に見れば同情されるべきは始のほうである。本人には、せいせいしたという気分があるにせよ。  一礼して出ていく始を見送ると、靖一郎はいまいましげに溜息をついた。彼はまさしく、同情してもらいたい気分だった。その目の朝、彼は娘や妻との会話で、自分がいかに孤立しているか思い知らされたのである。 「茉理《まつり》、また竜堂家に行くのか」 「そうよ。あそこの四兄弟、だまって立ってれば美男子、しかも秀才集団だけど、そろって家庭科の成績はよくなかったものね。ときどき、わたしが行かなきゃ、単なる下宿屋になってしまうし」 「行かんでいい」 「……いま何か言った、父さん?」  茉理にまっこうから見すえられて、靖一郎は、口の中に反論を封じこめた。自分のことばが卑小なものであることは自覚しているだけに、茉理の視線に対抗できないのである。娘は視線の強さをやわらげ、苦笑した。 「父さんには悪役は向かないわよ。無理しないほうがいいわ。悪人だったら、行って料理に毒でも入れてこいっていうところよ」 「茉理、口をつつしみなさい」 「そのほうが、よっぽどはっきりしてて気持がいいわよ。始さんを理事会から追い出して、講師のほうはそのままにしてさ。針の群《むしろ》にすわらせたつもりでいるの?」 「私は始たちを学院から追い出そうなんて思ってはいないんだ。始がもうすこし私に協力してくれたら、理事のままでいてもらってかまわん。第一、いつでも、いくらでも、復帰の可能性はあるんだからな……」  靖一郎の声が弱まったのは、娘の痛烈な台詞《せりふ》が、恐怖を呼んだからである。古田代議士に対する恐怖である。あの粗暴な男は、竜堂兄弟の食事に毒ぐらい放りこみかねない。そのとき、靖一郎も共犯にされてしまうかもしれない。それどころか、靖一郎に全責任を押しつけるということもありえるのだった。  口ごもった父親を、五秒ほどの間、黙然とながめやった娘は、身をひるがえして、食堂を出ていってしまった。 「茉理の奴、親の気も知らんで……」  文明発生以前からのぐち[#「ぐち」に傍点]を、靖一郎はこぼした。彼の妻は、先刻から、コーヒーカップを片手に父娘のやりとりを聞いていたが、視線を英字新聞に落としたままで、出ていく娘に声をかけるでもなくマイペースをたもっていた。  鳥羽|冴子《さえこ》は四八歳で、竜堂家の四兄弟にとっては、血のつながった叔母である。共和学院の常任理事であり、女子短期大学の学長と幼稚園の園長をかねている。  その年齢の女性にしては背が高く、姿勢がよい。顔のつくりはととのっているが、表情が硬《かた》く、とくにやせているわけでもないのに、全体の印象がやわらかさを欠いていた。  夫が、視線を娘から妻にうつして、ぐちる口調をそのままにとがめた。 「おまえも母親なら、すこしは娘のやることに口のひとつもはさんだらどうだ」 「とめてきく娘じゃありませんよ。第一、だいそれた悪事をはたらくわけじゃなし、従兄弟たちの家でハウスキーパーをやるだけじゃありませんか。何をうろたえているんです?」  冷静な返答は、正論ではあるが、それ以上に夫を冷笑しているように思えて、靖一郎には愉快ではなかった。 「すこしは、おれの苦労も察してくれ。学院を運営して、理事会内部をまとめるだけでも、おおごとなんだ。家庭のほうは。おまえがとりしきってくれなきゃ、こまるじゃないか」 「誤解しないでいただきますけどね、あなた、あなたは共和学院を手に入れるのかもしれないけど、わたしは本来の権利を回復するだけのことですから」 「……どういう意味だ、冴子」  靖一郎の声は低く、同時に熱くなった。自分がやったこと、やろうとしていることの意義を、妻に無視されたのでは、立つ瀬がなさすぎるというものだった。あいかわらず英字新聞から目をはなさない妻を、不機嫌ににらむ。 「この際、私も言っておきたいな。いくら潜在的な権利がどうだこうだといっても、実際に手にできない以上、海底に沈んだ宝とおなじだ。それをひきあげる手腕があってこそ、現実として意味を持つんだ」  はじめて、冴子は英字新聞から顔をあげた。銀縁の眼鏡ごしに、今度はまぎれもない冷笑の光を、夫にむけて投げつける。 「たいそうなことをおっしゃるわね。何とかいう悪徳代議士の力まで借りて、ついこの前まで学生だった甥を理事会から追い出すのに、どんな手腕が必要だというの?」  靖一郎は、たじたじとなった。いったい、竜堂家の血を引く者で、口が達者でない人間はいないものだろうか。 「な、何もおまえにそんなことを言われなきゃならない筋合《すじあい》はない。私は学院の発展を願って、あえて私情をおさえたんだ。始が憎くてやっているわけじゃないぞ」  妻の眼鏡が、ふたたび光った。 「すると、血のつながった者を、かわいいとは思ってるんですね」 「あたりまえだろう」 「だったら、せめて、娘が自由に恋愛したり結婚したりする権利ぐらい守ってやったらどうなんです」 「どういう意味だ」 「わたしは古田代議士のどら息子なんかを、娘の夫にする気はありませんよ」  靖一郎の右の眉と左の眉が、ちがう方角に動いて、内心の混乱をそのまま表情にあらわした。それをひややかに確認すると、冴子は、英字新聞の紙面を裏がえして、そこに視線を落とした。 「せっかく海底から引きあげた宝とやらを、もとから持っていた財産ごと奪《と》りあげられたりしたら、手腕とやらが泣くでしょうね」 「だが、他に方法がなかったらどうするんだ。うまくことわる口実があればいいが、でもないかぎり、どうしようもないだろうが」 「そんなに古田代議士みたいな暴力団の親玉がこわいんですか?」  妻のことばに、靖一郎は顔を真赤にした。ストレスが顔じゅうの毛穴から噴きだした。 「古田なんかがこわいものか! おれがこわいのは……」  言いさして、まるで刃物で断《た》ちきるように、つづくことばをのみこんでしまう。怒りや衝動を上まわる恐怖が、彼の舌を凍らせてしまった。赤から青へ、急変した夫の顔色を、冴子は半ばあきれたように、半ばあわれむように見やったが、すぐに冷淡な表情にもどると、英字新聞を手にしたまま食堂を出ていったのである……。       ㈼  院長室を辞した始が、デスクのなかの貴重品とがらくたをいっしょくたに紙袋につめこんで、学院本部の玄関から出ると、従妹《いとこ》の鳥羽茉理が本部前の欅《けやき》の下で手を振って合図した。 「始さん、さがしてたのよ」 「窓ぎわ理事に何か御用ですか、お嬢さん」 「あ、その言いかた、ひがみっばく聞こえるわよ。若者らしくないぞ」 「しかたないね、実際、ひがみっぽい気分になってるからなあ」 「とにかく、さしあたって理事のお仕事もなくて暇なんでしょ? だったら、若くて綺麗な女の子とデートしなさい」  始は無粋な男だが。「誰のことだ」と問いかえすほど無神経ではない。実際、茉理は「若くて綺麗」なのである。あわいオレンジ色のツーピースと白いブラウスが、均整のとれた身体によく似あっている。三月までは、高校の制服のブレザーが、ときどき。やぼったく見えたものだが。  もっとも、正面から彼女に対する気持をきかれると、始としてはこまる。彼女が生まれたときからのつきあいだし、彼女が四歳のとき、「始兄ちゃんはあたしの家来《けらい》!」と宣告されたような仲であるから。 「じゃあ映画でも見ようか。新宿で、なつかしのSFアニメ豪華無節操六本立をやってると弟どもが言ってた」 「うーん、もうすこし、おとなのムードがあるのがいいなあ」 「じゃ、怪獣ものにしよう」 「どうしてそうなるのよ。せめてヒッチコック風のロマンチック・サスペンスとか、それくらいのこと言えないのかしらね」  情報誌をのぞきこんだが、あいにくと怪獣ものもヒッチコック風作品も上映していなかったので、ふたりは池袋に出て、オーストラリアの華僑資本が製作したカンフー・アクション映画を見ることにした。これぐらいがまあ適当というものである。  退屈だけはしなかった二時間がおわると、すでに夕方になっていた。始は家に電話をかけ、茉理と夕食をとることを告げた。「ごゆっくり」とひやかす終の声を無視して受話器をおき、サンシャインビルの方角へ、茉理と肩をならべて歩きだす。ささやかな異変に気づいたのは、二分ほど経過してからだった。 「茉理ちゃん、このごろ、男に怨《うら》まれるようなことをしたかい」 「このごろはないわね、若いころならともかく」  と、茉理の返答も人を食っている。 「でも、どうしてそんなこと尋《き》くの?」 「人相の悪い若い衆が、後ろからへたな尾行をしてるんでね」 「あら、警察かしら」 「だとしたら、制服を学生服にかえたらしいな」  尾行は終わった。そして、それ以上に、けんのん[#「けんのん」に傍点]な行動にとってかわられた。茉理と始の前後左右を、合計一〇人ばかりの学生服の男たちが包囲し、そのままの歩調で、路地裏に移動したのだ。  ゴミバケツが積みあげられ、ネズミやゴキブリが白昼から自治権を主張する路地裏で、ふたりは学生服の男たちと対時《たいじ》した。 「お前さんたちに人間のことばが理解できると仮定した上で問うが、善良な市民をつけまわすのは何のためだ。寄付や募金なら、こちらがしてもらいたいくらいだぜ」  さすがに竜堂家の長男というべきか、始の悪ロ雑言は、おさおさ続におとるものではない。弟と同席しているときは、めんどうくさいので彼に権限をゆだねているが、いないときには自分で自分のスポークスマンをつとめている。 「やかましい、会長がお見えになるまで静かにしていろ」  将来、暴力団員か、政治家のボディーガードになるしかなさそうな、角刈りの大男が、芸のないことを芸のない口調で言った。  茉理は始の腕にしがみついているが、たいしてこわがっていないことは、その表情からも明らかだった。彼女は、竜堂家の兄弟たちがどれほど強いか、知りつくしているのだ。それは武道家の心身の修練をナンセンスなものと思わせるほどのレベルなのである。はっきりいって、獰猛《どうもう》な雰囲気をむきだしにしているような暴力学生どもでは、一〇〇人集まっても、まだ学生どものほうに不公平であろう。そう思ったが、べつに教えてやる義務もないので、茉理は黙っていた。  学生服の群が割れて、ひときわ強烈に暴力的な雰囲気をまとった若い男があらわれた。古田代議士の次男、義国《よしくに》であった。  興国大学の四年生であり、「体連」こと「体育運動部連合会」の会長であった。学内における権力は、なみの教授をはるかにしのぐ。父親が理事であるという一面もあるが、右翼的な体質の強い総長と直結して、学内では私設警備隊にも似た役割をはたし、一方では体育系各クラブの予算も思いのままに動かしていた。学内に体連会長室を持ち、昼間から。そこに女子学生や水商売の女性を引きこんで、わが世の春を謳歌《おうか》しているといわれていた。こまかいところで、学割の発行まで左右して、こづかいかせぎをしているし。学生食堂にからむ利権も手のうちにあるという。まさしく父親のコピーというに恥じなかった。 「おれは古田義国だ。話を聞いているだろう。おまえの結婚相手さ。今日はおまえを設備のいいホテルにつれていってやろうと思ってな」  茉理はうんざりしたように頭を振って、望みもしない結婚相手をにらんだ。 「たしかに話は聞いてるわよ。冗談としては性質《たち》が悪いし、事実としてはもっと性質が悪いわね」  視線を従兄にむけて、 「おめでとうなんて言ったら、ひっぱたくわよ」 「言う気はないよ」  ふたたび、茉理は義国にむきなおった。 「つまり、あなたの乱暴なお父さんが、男だったら力ずくで女をものにしてこいと言ったわけね」  茉理の声は嫌悪感に満ちていた。義国はどす黒い笑いでそれに応じた。ワンテンポ遅れて学生たちも媚《こ》びるように笑った。 「たかだか一八歳の女の子に見すかされるようなことをしてるようじゃ、あなたの恋愛運も将釆は明るくないわね」 「そうかい、いまは明るいぜ」  自分では豪快だと思っているらしい笑いかたをしてみせる。 「暗くても明るくても、ベッドでやることは同じさ」  そこで始が口をはさんだ。 「同性として忠告しておくけどね、あんたの手におえるような娘《こ》じゃないよ」 「何だ、きさまは、この娘の愛人か」 「そうじゃない。まあ強《し》いていえば家来《けらい》だね」  いやに真剣な口調で、始は答えた。 「どういう意味よ、始さん」  廟笑がひびいた。 「……へえ、家米だってか。だったら、生命がけでご主人さまを守ってみせるんだな」  古田義国は、始より五センチほど背が低いが、これは始が日本人としては長身すぎるからだ。義国の体格は、相撲の幕内力士の平均に、そう劣るものではなかった。身長一八三センチ、体重一〇五キロ、上から見ると円筒に近い、魁偉《かいい》な体格をしている。それに比べれば、均整のとれた始の長身も、サーベルのように細く見えた。 「女を犯《や》るときほどじゃないが、男を痛めつけるときにはそれなりの楽しみがあるぜ」 「あいにくと、竜堂家に、マゾの血は流れてないんでね。なぐられてもうれしくない」 「なあに、経験をかさねているうちに、あたらしい自分を発見するさ」  義国としては、最大限のジョークにちがいなかったが、つづいてやったことにはユーモアのかけらもなかった。ふたりの学生が、いきなり両脇から始の腕をつかんだ。義国が、ゆっくりと拳をつくった。  抵抗できない相手を痛めつけるのは、義国の最上の楽しみであるようだった。歯茎をむきだした笑顔には、ほんものの愉悦があった。  拳が、かわいた音をたてて始の左頬にめりこんだ。充分に体重がのり、手首のひねりがきいていたから、ふつうなら奥歯がおれて昏倒していたろう。だが、始は、不快そうに、かるく顔をしかめただけだった。 「家訓にいわく……恩は二倍にして返せ、怨みは一〇倍にして返せってね」  言い終えた瞬間、始は爆発した。  両腕をはねあげると、それをおさえこんでいたふたりの学生が、文字どおり吹きとんで、ビルの外壁にたたきつけられた。悲鳴が反響し、学生たちがとっさに事態の急変についていけずにいる間に、古田義国にむかって突進する。いや、突進のスピードで歩みより、いきなり左手だけで義国の襟首をつかんで持ちあげた。仰天し、じたばた宙でもがく義国を、そのまま運んで、ビルの壁ぎわの大きなポリバケツに、頭からたたきこんだ。脚をばたつかせるのを見ながら。バケツを蹴りころがす。  残飯と恥にまみれてようやく起きあがった義国は、気絶していない手下の姿が消えていることに気ついて、捨て台詞《ぜりふ》をはきだした。 「このままじゃすまんぞ、憶《おぼ》えていろ、後悔させてやる」 「頼むから、もうすこし個性的な台詞《せりふ》を言ってくれ。でないと、いちいち憶《おぼ》えちゃいられないね」  始の声は、残飯まみれの広い背中にはねかえった。義国は、分厚い肩ごしに振りかえりかけたが、そのまま路地をまがって姿を消してしまった。 「やっぱり強いわ、始さんは」  感心して、それでも心配したように、茉理が始の左頬のあたりを注視した。 「痛くなかった? さっきの一発」 「べつに。しかし、こういうことがあると、叔父さんたちの立場が、古田代議士に対して悪くなるかもしれんよ」 「たぶんそうなるでしょうね。しかたないわ。学院を横領するという欲望にとりつかれているかぎり、古田代議士にかぎらず、頭痛の種はいくらでも出てくるわよ」 「単なる頭痛と思っていたら、悪質な脳|腫瘍《しゅよう》だったということもあるが」 「だとしたら、患者当人の健康管理に問題があるわね」  父親をつきはなしておいてから、茉理はふいにため息をついた。 「お祖父さんが生きてらしたころは、父も、常任理事で満足していたのにねえ。中国のことわざにある、虎死して犬が自分の天下と思いこむ、というやつね」 「犬とは気の毒だな。君のお父さんだぜ」 「だからなさけないのよ。自分自身の野心と才覚でやっているのならともかく、古田代議士にあやつられてるだけだもの」  ふたりは路地から出て、表通りを歩きはじめた。 「そのことだがね。古田という人のことを、ちょっと知人に調べてもらったんだ」 「新聞社にいる人?」 「そう、祖父の教え子でね。何かと情報源になってくれる。記事にできないような情報を山ほどかかえてるんだ」  言論が自由なはずの日本で、記事にできない情報があるとは不思議なことだが、そういう疑問はさておいて、始は先日、その知人を新聞社に訪ねたのだった。 「代議士の古田重平のことを知りたいのか」 「そうです、一般論としてでいいから」  始がそう言うと、知人はやや考えこんでいたが、短くなった煙草を未練がましく灰皿に押しつけながら答えた。 「ひとことで言うと、類型だな」 「類型?」 「そう、類型的な悪徳政治家。TVドラマに出てきそうな、暴力と利権あさりの悪役さ。何をやらかすかわからん無頼漢としてのこわさはあるが、底は浅い。始君が相手にするような人間ではないと思うがね……」  そういうやりとりがあったのだ。始としても、古田を相手にどうこうする考えはない。さしあたって、彼の叔父であり茉理の父親である人との関係が問題だった。 「父はもともと、野心家なんかじゃないもの。自分でそう思ってるだけよ。上昇志向はあるけど、お祖父さんのもとで堅実に、堅実に、とやってきたのが父の本性でね。キャンパスを移転するの、学部を増やすの、費用は土地売却ですべてまかなうの……そんな浮わついたこと、考えてなかったのに、人が変わってしまったみたい。みんな古田代議士のせいよ」  茉理としては、そう思いたいところだろうが、その逆かもしれない。祖父が、つまり靖一郎にとっての義父が生きている間、本性を隠していただけかもしれない。それに、自分で自分の正体を知らないことだってありうるだろう——竜堂家の末弟、余のように。 「叔父さんたちの背後にいるのは、あの悪名高い古田代議士だと思っていたんだが……」 「ちがったの?」 「いや、たしかに古田はいるんだが、さらにその背後に何かいるらしく思える」 「ああ、つまり、古田代議士がすでに誰かの手先だってことね」 「考えてみれば、そうなんだ。古田みたいな男には、サイキック・ノベルの二流の悪役ていどしかこなせない。シナリオを言いたり演出したりする能力があるわけはないんだ。だとすると、さらに黒幕がいるにちがいない」  類型的な悪役、という友人の評価は、おそらく正しい。始はそう思っている。だから、単純に、共和学院の資産が目的で、あくどく叔父を使嗾《しそう》したり強迫したりしているのかもしれない。古田ひとりにかぎってはそうだとしても、その背後にいる人物はどうか。  考えすぎかもしれない。だが、関越自動車道の件がある。彼ら兄弟を包囲する網が、いつのまにか完成されつつあって、共和学院からの追放は、その一環にすぎないかもしれない、と、そう考えるべきではないのか。  亡くなった祖父が言っていた。「その時が永遠に来ないように祈っとるよ」と。どうやらその時[#「その時」に傍点]が近づきつつあるのかもしれない。  祖父は自分のつとめをはたして世を去った。始のつとめは、まだはたされていない。祈ってはいられず、判断し行動しなくてはならなかった。しかし彼はまだ二三歳の青二才であるにすぎず、自分のかかえている荷物が重く感じられてならない。といって、放りだそうと考えたことは一度もないのだ。  彼は、心配げな従妹に笑ってみせた。 「さて、食前の運動もすんだことだし、予定どおり食事してから、茉理ちゃんを送っていくよ。ロシア料理にするか、それともイタリア風にするかい?」  茉理は、かるく首を振った。 「昔から始さんて、どんなときでも食事を忘れないのよね。ときどき、ついていけなくなるわ。でも、どうせなら今夜はロシア料理がいいわね」 「それで、おめおめと帰ってきたのか」  父親の声に、義国は太い首をすくめた。父親が手にしたゴルフクラブが、日本刀以上に危険なものに見えた。 「義国、おまえは自分ひとりの力で女をものにすることもできん甲斐性なしだ。しかも、よりによって、竜堂家の青二才めに、手下どもの面前で恥をかかされたとはな」 「親父……」 「わかっとるのか。泥を塗られたのは、おれの面子《メンツ》だぞ。おまえが前科者にならんですむよう、何度も警察に借りをつくってやった。その親の恩に、よくも一番ぶざまな形で応《ニた》えてくれたな」  息子に対してまで、この男の物言いは、威圧的で恩着せがましい。他人に屈辱を与えることで、自分の優越性を確認せずにいられないようであった。もっとも、この男にはこの男なりの理由があるので、長男にくらべて不足点の多い次男を一人前にしてやろうという気もあれば、つらにくい内閣官房副長官高林の息子が東大法学部を卒業して自治省入りしたことに対するいらだちもある。いずれにしても、古田は、いっもは息子にやりたい放題をやらせてはいても、いざというときの処理能力まで失わせる気はなかった。子は父にとって役に立つ存在であるべきなのだ。せっかく共和学院の支配者という身分を用意してやっているのだから、与えられた獲物を自分の歯でかみ裂くていどのことができなくてどうするのか。 「わかった、親父、おれにもう一度チャンスをくれ。かならず、名誉を回復してみせるから」 「どうするつもりだ?」 「おれひとりのためではない、親父のためにも、あの竜堂家の生意気な兄弟どもを痛めつけてやる。あの兄弟を痛い目にあわせたら、共和学院の院長とかも、びびって、親父の命令をもっときちんときくようになると思うんだ」 「ふむ……」  古田は、わずかだが、息子の判断力を見なおす気になった。たしかに、鳥羽靖一郎は、甥を学院から追い出したくせに、竜堂兄弟の力をどこかで頼りにしている節《ふし》がある。長兄の始を、理事の座から追ったくせに、講師としてはまだ学院に残留させているのは、完全に手を切るつもりがないからではないか。  ここで竜堂兄弟をたたきのめし、完全に屈伏させておけば、古田に対する鳥羽の反抗心を、完全におさえつけることができるだろう。それに何よりも、関越自動車道での失敗を、回復する必要がある。高林に対する優位を確立させるためにも、「御前」に対して自分の忠勤ぶりと実力を示すためにも、竜堂兄弟に然《しか》るべき処置をとっておく必要があるのだった。 「よし。まかせるからやってみろ。たりんところは力を貸してやる」  父親のことばに、息子は笑顔をとりもどした—— どこまでも肉食獣の笑いではあったが。       ㈽  奇妙な郵便物が竜堂家にとどけられたのは、いよいよ明日から新学期という日の午後だった。 「明日は開く地獄の門」と自作の歌をうたいながら郵便受けをのぞいた三男の終は、えたいのしれないふわふわした感触の大型封筒を手にして、首をかしげた。差出人の名がないのを確認して、封筒をやぶり、玄関のたたきの上でさかさにした。  封筒からこぼれ落ちたのは、人間の頭髪だった。両手にあまるほどの量がある。長い、しなやかな、やや茶色がかった髪は、若い女性のもののようであった。髪の小山の上に、一枚の便箋《びんせん》がのっている。  ワードプロセッサーから打ちだされた、非個性的な文字の羅列が、終の視線を吸いつけた。  一分後、竜堂家の四兄弟は、書斎に集まっていた。生前の祖父が使っていた北向きの洋間で、ばかでかい古い地球儀と天球儀が一方の壁ぎわに並んでいる。  部屋にふさわしい大きい堅牢なデスクの上に、手紙と封筒とそして髪がのせられている。  次兄の続が低声でワープロの文章を読みあげた。 「……知合いの麻田《あさだ》絵理《えり》はあずかっている。同封の髪がその証拠だ。これ以上。麻田絵理の身体の部品[#「部品」に傍点]を失いたくなかったら、つぎの指示を待て。古田義国」  続が、弟のほうを見た。 「さらわれたのは、終君のガールフレンドですか?」 「だといいけど、それほどの仲じゃない。単なる中等科のときのクラスメイトだけどね」 「だとしても、放置してはおけないというわけですね」  同封された大量の頭髪を、兄弟たちは、めずらしく深刻な表情でながめやった。最初は髪を切る。髪はまた伸びる。だが、指や耳でも切られたら、とりかえしがつかない。 「相手が古田代議士だとすると、警察にとどけてもむだだと思うんだ。助けにいくしかない」  終が言うと、続が前髪をかきあげた。 「古田代議士の家は一軒だけじゃありませんよ。選挙区はたしか北陸のほうでしたけど、そことか衆議院議員会館ということは、さすがにないと思います。ですが、東京周辺だけで何軒も別宅がありますからね。終君ひとりの手にあまると思いますよ」  始が意味ありげに続を見た。 「そんなことをよく調べたな」 「語学と体育さえサボったら。大学二年生には、暇がありあまるんです、とくに文科系だとね」 「大学は学問の府だと思っていたが」  時代おくれのいやみを、始は口にした。 「高校まで自由|澗達《かったつ》にすごせるような国だったら、そうでしょうね。日本では、大学時代は、一生のなかで、公然と自主的に遊べる唯一の時期なんです」 「りっぱな建前《たてまえ》だが、要するに、けんかざたを独占するな、と、終に言いたいんだろう、お前さんは」  そう決めつけられて、続は声をたてずに笑った。 「さすがに長兄ともあろう人は読みが深いですね。ええ、そのとおりです。兄さんは、この際、平和主義に徹しますか?」 「まさか」  一言で答えておいて、始は組んだひざを組み替えた。 「ま、やるなら敵さんが罠をはりおえる前に行動したほうがいいだろう。それで相手と交換できる人質を、こっちもとっておくんだな。先方が粗暴で卑劣なまねをしてるんだから、遠慮はいらないさ」  それから一時間にわたって、竜堂兄弟は対策を話しあい、行動にうつった。  古田重平の次男義国は、旧国電山手線恵比寿駅の近くにマンションの部屋を持っている。三LDKの広さで、彼のさまざまな公的私的活動の根拠地であり、手下どものたまり場ともなり、女をつれこんだり、脅迫や私刑《リンチ》の場ともなる。父親の政治資金を保管するために使われた際には、義国は父親から五バーセントの保管料をふんだくったともいう。  終はいま、そのマンション「アーバンパレス恵比寿」の裏手に立って、一五階建の煉瓦《れんが》色の壁面をながめあげていた。  さて、どうやって忍びこむか。  エレべーターホールからして、三人ばかり学生服姿の男が木刀を手にたむろしていた。木刀の殺傷力は、真剣にそれほど劣るものではない。建物の裏側にもうけられた非常階段にも、やはり木刀を持った学生たちの姿があった。マンションの他の住人にとっては、さぞ迷惑なことだろう。  いずれにしても、「つぎの指示」を待たずに行動したのは、古田父子の機先を制し、意表をつくためである。どうせなら、せいぜいあざとくやってのけたほうが、心理的効果があるでしょう——と、続が言っていた。  ジーンズの上下にTシャツ、スニーカーという活動しやすい服装の終は、せいぜいジェットコースターに乗りこむていどの緊張度しかしめさず、もう一度、壁面を見あげ、周囲に人影がないのをたしかめた。  ……この夜、古田義国が自分のアジトに女をつれこんでいなかったのは、むろん、竜堂兄弟の反撃を予想していたからではない。たまたまそういう晩もあるということで、彼はアメリカ製のポルノVTRを見ながら、幾人かの手下の学生たちと酒を飲んでいた。善良なサラリーマンが手にすることもできないような高価な洋酒の瓶が、二〇畳ほどもあるリビングに林立し散乱していた。  隣室のドアがあいて、ひとりの人影があらわれたとき、それが竜堂終と気づくのに、二秒半ほどかかった。  油断と酒のせいである。彼は立ちあがってよろめき、舌をもつれさせた。 「ど、どうやってはいってきた、孺子《こぞう》」 「天使に知りあいが二、三人いるんでね。引っぱりあげてもらった」 「嘘をつくな!」 「ジョークと嘘の区別もつかない人と。友だちづきあいはしたくないなあ」  高さ三〇メートルの壁面をクライミングしたようすなど、まったく見せず、終はへらず口をたたいた。 「ところで、麻田《あさだ》絵理はどこにいる? へたくそな床屋さんに教えてもらうために、わざわざやってきたんだけどね」  義国は呼吸をととのえた。 「教えてやってもいいが、条件がある」 「条件?」 「おれと勝負しろ。きさまが勝ったら、小娘の居場所を教えてやる」  それを聞くと、終は、むしろ気がぬけたような笑声をたてた。 「何だ、そんなことでいいのか。もっとむずかしい条件を出されるのかと思っていた」 「…………」  この場合、沈黙は、沸騰する怒りの表現であった。始に軽くあしらわれた屈辱の記憶が、それを加速させた。彼はこめかみの血管を怒張させながら学生服をぬぎすて、シャツの裾をまくった。ボケットに両手をつっこんだままの終は、リビングの一方の壁面をしめるオーディオ・セットにちらりと視線をむけた。 「ここで立ちまわりをやったら、せっかくのオーディオがこわれてしまうんじゃないかな」 「むろん屋上でやる。ついてこい、逃げるなよ」  八歳も年下の少年にペースを乱されながら、義国は部屋を出た。荒々しくドアがあいて、義国の巨体があらわれると、廊下を埋めていた一○人ばかりの学生たちが目をむいた。 「この役たたずども! このがき[#「がき」に傍点]は、堂々とおれの部屋にはいりこんでいるじゃないか。きさまらの顔についているのは、ガラス玉か、何を見ていやがったんだ!」 「で、ですが、会長、自分たちは、ちゃんと階段や廊下を見はっていました」 「口ごたえをするんじゃねえ!」  右と左に平手打の音をはでにたてて、義国は手下の学生たちがつくる列の間を通りぬけた。そのあとに終がつづいた。戦艦に先導されるフリゲート艦という印象だったが、フリゲートのほうが悠然としているようだった。  エレベーターで屋上にあがるとき、終は眉をしかめた。アルコール臭が充満していた。  屋上は、化粧タイルと芝と常緑樹の植込みとで構成されていて、一〇〇坪ほどの広さがあった。二、三十人が乱闘するのに充分な空間がある。  北に、渋谷を経て、新宿の摩天楼が光の柱を宙へ突きたてている。やや強い風が吹きぬけているが、その方向はほとんど一瞬ごとに変化する。  周囲に、二〇人ほどの手下たちを散らせておいて、義国は、不敵な侵入者にむきなおった。呼吸をととのえ、肺と脳の綱胞からアルコール分を追いだそうとつとめる。やがて、この男なりに用意をすませて身がまえた。 「いくそ、孺子《こぞう》、胃袋をつかみだしてやる」 「どうぞ、おいでませ」  不敵に応じると、終は、敏捷にとびのいていた。うなりを生じて襲いかかってきた、丸太のような右脚に空を切らせる。間髪をいれず、左脚が第二撃を放ってきた。パワーといいスピードといい、常人ならかわしうるはずもなく、胴にキックをたたきこまれて吹きとび、肋骨の三本ほどもへし折られていたにちがいない。  あいにくと、終は常人ではなかった。義国の攻撃はぶざまに空を切り、同時に、体重をささえた軸足をひょいとはらわれてしまう。義国はみごとに横転し、前歯で芝をかんだ。  学生たちの間から、失笑寸前のさわぎがたちのぼった。むりもない。粗暴にして兇悪な彼らの支配者が、自分より二まわりも小さな少年に翻弄されているのだ。先目、彼が路地裏で見せた醜態を、いまさらに思いだした者もいるにちがいない。  義国は逆上した。先日は竜堂始に片手であしらわれ、今夜はその弟に遊ばれたとあっては、彼の権勢のよって立つ基盤——暴カ——に亀裂が生じざるをえない。それに、終を人質にしてその兄たちを屈伏させるという陰湿なもくろみも、こうなっては望み薄になってしまう。  傷ついた野獣のように、義国は芝の上に起きあがった。咆哮をあげて、終に躍りかかる。気の弱い人間なら、それだけで気絶死してしまおうかという迫力であった。  だが、迫力も腕力も、武道も格闘技も、この際は無益であり無力だった。肩からつっこんできた義国の巨体を、終は軽くかわした。むしろその口臭に辟易《へきえき》したかのようだった。  かわしざま、目標を失った義国の、牡牛のような尻を蹴とばした。義国は宙をとんで、常緑樹の植込みに顔をつっこんだ。ようやく起きなおったとき、鼻血が顔の下半分を染めている。小枝を鼻孔につっこんでしまったのだ。 「おまえら、何をだまって見てるんだ!」  もはや恥も外聞もない。義国は自分の恥を隠すために大声でわめいた。 「このがき[#「がき」に傍点]を袋だたきにしてしまえ。死んだってかまわん。親父が後の始未はつけてくれる。やってしまえ!」  学生たちは顔を見あわせたが、すぐに命令にしたがおうとした。いまでは終をただの高校生とは思わなかったが、数の優勢を信じたのだ。予想外の結果が生じたのは、彼らが甘かったからではなく、終が「辛《から》かった」からであろう。  その夜、「常識」は、徹底的に粉砕される運命にあったようだ。それを証明するのに、五分もかかったのは、二〇人という人数が、たしかに量としては多かったからである。  鼻血が完全にとまらないうちに、義国は、屋上庭園一面に、気絶した手下どもの身体がオブジェとなってばらまかれる光景を見た。彼はあえぎ、姿勢をかえた。  這《は》って逃げようとする義国の左足首を、終は無造作につかんだ。  それだけで、義国の巨体は前進をやめた。体重が半分ほどしかない終の片手にひきずられて、義国は屋上庭園の端につれていかれた。そこで終は、あらためて義国の両足首をつかむと、軽々と義国の巨体をつり上げた。そして、屋上の隔壁ごしに腕を伸ばして、義国を宙づりにしたのである。  義国は悲鳴をあげた。これまで、他人に悲鳴をあげさせ、哀願する相手を殴り、蹴り、暴力と恐怖によって支配をつづけてきた、若い糧暴な独裁者が、正体をさらけだしたのだ。強さと残忍さとの間には、何の関連もないことを全身で証明してしまった。 「麻田絵理はどこにいる?」 「し、知らん」 「おれ、耐久力がないからなあ。育ちがよくて、箸《はし》より重い物なんか持ったことないから、ほら、手がすべる!」  ぎゃあっ、と、義国はわめいた。終が片手を離したのである。上下が逆になった義国の視界のなかで、渋谷の夜景が大きく揺れた。その瞬間に、義国は失禁した。熱い液体が、股間に発して、腹から胸へ、不快な流れをつくった。 「……やめろ、言うからやめてくれ」  自分自身の尿にまみれながら、古田義国はみじめたらしく哀願した。彼の見せかけの強さは。恐怖と敗北感の前にもろくもくずれおちていた。 「麻田絵理は親父の家にいる。町田と八王子の境だ。名義は他人のものになってるが、親父のものなんだ……」  そこには、次兄の続が行っているはずだ。終の両眼が鋭い硬質の光を放った。迷惑きわまる招待状は、ようやく招待先を明らかにしたようだった。 [#改ページ] 第四章 悪役、交替す       ㈵  東京都下、八王子・町田両市の境界をなす台地の一角に、都市開発の波からまぬがれて、ひとかたまりの山林が残っている。  樹木によって人々の目から遮断された山林のなかに、高さ三メートルをこす石塀がめぐらされていた。塀にかこまれた敷地は、三〇〇〇坪、一〇〇メートル四方はありそうだった。ゴルフ場へむかう公道から山林の奥へ、それほど広くない舗装路がのび、歩いて三分ほどで厚い鉄扉の門にいたる。  古田重平の屋敷のひとつだが、名義は、彼が大株主になっている不動産会社のものになっている。竜堂家の次男|続《つづく》は、助走もせず、高い石塀の上に飛びのった。その前に、塀のなかへ小石を放りこんで、あるていど安全は確認していた。べつに高圧電流も通してなかった。  古田代議士は、自宅の裏庭で札束のなる木を促成《そくせい》栽培でもしているにちがいなかった。それほど巨額とはいえない議員としての俸給以外に、一円の収入もないはずなのに、選挙区と東京、さらに国内や海外各地に、一〇軒以上の邸宅をかまえている。モンテカルロのカジノで、三日間に五〇〇万ドルをすりながら。帰国直後にすべて返済してしまったという。それだけの大金を、どうやって調達したのか、追及したジャーナリズムはなかった。  日本には、批判能力をもつ政治ジャーナリズムなど存在しない。権力闘争をおもしろおかしく騒ぎたてる政治業界PR産業がのさばっているだけだ。そう続は思っている。これが共産主義国なら、弾圧を受けて政治ジャーナリズムが活動できないということもあるが、日本の場合は、自主的に活動しないのだから、あきれてしまう。  音もなく、続は塀から屋敷のなかへとびおりた。  弟と同じく、京劇俳優のような身軽さだ。  庭園も建物も、和洋折衷——というより、東西の様式が混在して、無国籍風である。  芝生、築山、人工林などの間を、続はすばやく、流れるように移動した。自分自身の体重に関して、重力の干渉を無視できるほどの筋力があるのだ。  各処に庭園灯が設置されていたが、光をともしてはいなかった。半月の下、闇と影のなかをすべって、楽々と建物の傍まできた続は、壁に身体をはりつかせた。広いテラスの彼方から、人の気配が接近してくる。体熱と呼吸音と足音が、続の感覚に触れた。  目の前を人影が通過しかかった。古田邸のガードマンであろう。半瞬で続は決断し、すっと男の前に立ちはだかった。  男は叫び声を放とうとしたが、腹部に痛覚が爆発し、意識が空白になった。暴力のプロであるはずの自分が、こうもあっけなくやられるとは想像の外であったろう。  気絶した男の身体を土の上に横たえると。続はその服をさぐった。三八口径のコルト・オートマティックと錐刀《すいとう》を手にしたとき、夜の奥から、危険でしかも下品な犬の咆哮が湧《わ》きおこった。  ドーベルマンの影が、続の左右と後方に跳ね、白い光芒が視界を侵略した。建物のすべての部屋に灯火がともり、庭園灯も光を放った。テラスに面したフランス窓があけはなたれ、サッカーチームをつくれるほどの人数が、続と対時《たいじ》した。中央に代議士の古田重平が和服姿で立ち、毒気を続にむかって吹きつけた。 「竜堂家の鼻たれ孺子《こぞう》どものひとりか」  赤黒い歯茎をむきだして、古田は獰猛《どうもう》な笑顔をつくった。ドーベルマンのそれを上まわる危険さと下品さが、粗野で精力的な顔にみなぎっている。 「思ったより早く行動に出てきたな。二、三日は判断に迷って右往左往するかと思ったが」  思うのはそちらの勝手だ、と考えつつ、続は肩ごしにかるく視線を放った。ドーベルマンが三頭、彼の背後を扼《やく》している。 「ふん、たしか次男坊だな。柔弱そうな面《つら》をしとる」  古田に比べれば、ほとんどの男は柔弱そうな顔に見えるであろう。主人にへつらうような笑声を、周囲の男たちが発した。 「きさまなどがこの古田重平に対抗しようなどとは、力不足、役不足もいいところだが、ひとりで古田重平の屋敷へやってきた度胸だけは、ほめてやってもいいぞ」  それを聞いた続は、片手で前髪をかきあげ、冷笑で相手にむくいた。 「力不足と役不足を、あなたは同じ意味に使ったけど、役不足というのは、才能のある人間がつまらない役割しか与えられない、という意味です。あなたが言いたいのは、役者不足ということでしょう。日本の伝統がどうとか、えらそうなことを言う前に、中学生の使う国語辞典ぐらいは開いてみたらいかがですか」  ほとんどひと息に言い放つと、古田の周囲の男たちは、どぎもをぬかれたようであった。  続は夢の王子さまめいた美貌の所有者であるだけに、毒舌をはくと、その面憎《つらにく》さは尋常なものではない。相手の怒気と憎悪を、精神の表層へ引ぎずりだし。殺意さえおぼえさせることがある。まして、もともと暴力志向の強い古田に、この挑発は、強烈な効果があった。 「よくぬかしたな、口巧者《くちこうしゃ》ながき[#「がき」に傍点]め、もうすこしおとなに対して礼を守るべきだった、と、すぐに後悔させてやるぞ」  続をとらえたらどうするか、どういう目にあわせるか、という毒々しい構想を、古田はたてつづけに口にした。それは、古田重平という「国民の選良」が、どれほど、国民の税金で養われる資格を欠いているか証明するものだった。要するに、殺す以外のことはたいていやってのけたあげく、人質にして、続の兄弟たちをおびきよせる囮《おとり》にする、というのであった。  不愉快でグロテスクな未来描写が一段落すると、綻はふたたび言い放った。 「まったく、人質をとるしか能がないんですね。言っておきますが、麻田絵里という娘《こ》をぼくにわたして出ていかせるのが、ベストですよ。ぼくは兄弟のなかで一番、ひかえめな平和主義者なんですからね」  返答は、三頭のドーベルマンに対する口笛の合図だった。胸の悪くなるようなうなり声がかさなり、三頭の殺人犬は、長い舌をつきだして、続との距離をつめた。荒々しい息が、続のひざの裏をスラックスごしになでる。 「そのドーベルマンどもはな、この二日間、餌をくらわせておらんでな。きさまの若い肉は、さぞ、奴らの口にあうだろうて。心配するな、腰から上は残してやる。生きてさえいれば、宦官《かんがん》でもありがたいと思えるだろうて」  ひときわ大声で笑ったのは、自分で自分の冗談が気に入ったのかもしれない。その笑いがおさまると、粗野な表情に陰惨さを加えて、ドーベルマンをけしかけた。「うし!」  三頭のドーベルマンは、飢餓《きが》と殺意の咆哮をあげて、続に躍りかかった。  続が血煙をあげてかみ倒された——とは、男たちの幻想にすぎなかった。常人には不可能な速さで、続は拳銃をかまえ、ドーベルマンの一頭をめがけて撃ち放した。しかも同時に五メートルの距離をとびのいて、殺人犬どもに空をかみ裂かせている。  銃声そのものにたたき落とされるかのように、ドーベルマンは地に地に這《は》った。大きくあけた口の真ん中を撃ちぬかれて、はげしく痙攣《けいれん》する。それが終わらないうちに、他の二頭のドーベルマンが、仲間の身体にくらいつき、血なまぐさい共食いを開始した。骨がくだけ、肉片がとびちる。 「銃を使うとは何ごとか!」  古田は憤激のあまりテラスを踏み鳴ちした。他の男たちは、さすがに共食いのさまを正視できず、顔をそむけている。 「卑怯ではないか。素手《すで》でたちむかえ。それでも、きさま、日本男児か」 「あいにくと、ぼくは、卑怯が大好きでしてね」  古田のエゴイスティックな抗議を、続は笑いとばした。もう一弾をテラスの端のフランス窓にむけて放ち、割れくだけたガラスをくぐって屋内にとびこむ。  二〇畳ほどの広さの洋室であった。家庭用ではない本格的なサイズの|撞 球 台《ビリヤード・テーブル》が置かれている。天井も高く、三メートルほどはあり、成金趣味のシャンデリアが白々と室内を照らしていた。 「村松! この青二才に礼節を教えてやれ」  古田代議士は吠えた。その声に応じて、隣室との境のドアがひらき、ひとりの男が姿をあらわした。三〇代半ばらしい。黒い服、安物の蝋《ろう》人形めいた無表情、そして右手には鞘ごと大ぶりな日本刀をさげている。 「青二才、銃をすてて村松と勝負しろ。でないとこちらもいっせいに撃つ」 「…………」 「村松、わしを満足させるだけの技量《うで》を見せてくれたら、おまえのほしがっていた浅井《あさい》上総介《かずさのすけ》宗房《むねふさ》の剛刀をくれてやってもいいぞ」  くれてやる、と断言せず、やってもよい、というところが、この場にあって。古田の狡猜《こうかつ》さをあらわしているであろう。だが、それでも充分、村松という剣術屋を鼓舞《こぶ》する効果があったらしい。  村松は無言のまま日本刀を抜きはなった。錯覚であろうか、白刃とともに露出された血臭を、続はかいだような気がした。  続は手を伸ばした。|撞 球 台《ビリヤード・テーブル》の上に、キューがのったままである。それをつかむと、ゆっくり身がまえた。彼には杖術《じょうじゅつ》の心得があった。奥義にほど遠いものではあったが。       ㈼  続には、終と同じく、自分を守るために武術など習得する必要は、ほんとうはないのだ。それでも、杖術を学んだのは、肉体的能力のコントロールにいくらかは有効であることと、技術の存在によって力《パワー》の存在を隠す、という戦略的発想による。統の杖術で倒された者は、続の技にやられたと信じこんで、その優美で繊綱な肉体にひそむ。常軌《じょうき》を逸《いっ》した力を見すごしてしまうのだ。  キューを片手でかまえた続の姿を見て、村松は冷笑するように細く口を開いた。この男の技量《ぎりょう》をもってすれば、続の杖術が、達人などというレベルに達していないことなど、ひと目でわかるのだろう。  天井が高いといっても、室内であるからには。上段はまずい。やや低く、身体の右側面に剣をたてていたが、不意に、無言のうちに動いた。空気を鞭うつような音をたてて、白刃が斜めに飛ぶ。  日本刀が、キューを両断し、そのまま小さな弧を描いて、統の頸部を襲った。  速さといい、圧力といい、強烈きわまる斬撃《ざんげき》であって、常人なら一刀で頸動脈を切断されていただろう。だが、古田義国を翻弄した竜堂|終《おわる》が常人ではなかったように、その兄も常人ではなかった。男の白刃は、大気を断《た》った。空気の分子さえ、酸素原子と窒素《ちっそ》原子に分断したかもしれないが、続の頭髪すらかすめることはできなかった。  絶対にありえない速度で白刃をかわした続は、|撞 球 台《ビリヤード・テーブル》の側面にまわっていた。そして、台に手をかけると、それを片手で軽々と持ちあげたのである。  村松と、その後方にひかえた男たちの間で、驚愕《きょうがく》と恐怖が沸騰し、彼らは口をひらいて呼気《こき》の塊をはきだした。  オーク材とイタリアン・スレートでつくられたアンティーク調の撞球台は、一トン半もの重量がある。人間の筋力で持ちあげられるようなものでは、絶対にない。それを、しなやかな細身の続が、頭上に持ちあげたのだ。しかも左手だけで。  非現実感の鎖が、男たちをしばりつけ、彼らは、武器をかまえたまま、宙にもちあがった撞球台をながめた。 「ば……化物だ!」  悲鳴が天井と壁に反射し、自分たちの声におびえたように二歩ほどよろめきさがった。 「それがたとえ事実だとしても、あんたたちに言われるのは、不愉快ですね」  撞球台を持ちあげたまま、続は、おちつきはらって応じ、白刃をかざしたまま微動だにしない村松に、皮肉な笑顔をむけると、バスケットのシュートでもするように、ひょいと撞球台を投げつけた。  一トン半の石材と木材は、床と壁をうちくだき、ときならぬ地震を生じた。残響が消えさり、埃が静まったとき、村松という男は、くずれた壁土に上半身を埋めて気絶している。手には日本刀をつかんだままだ。  古田の部下たちは、戦力として、ものの役に立たなくなっていた。大半が腰をぬかし、涎《よだれ》と尿をたれ流していたし、そうでない者は、床の上を平泳ぎしつつ、きれいな顔の化物から必死に遠ざかろうとしていた。 「この、この化物め……」  古田の顔は、どす黒く膨張して、ドッジボールさながらだった。  二流の主人には、二流の部下しかしたがっていないもののようである。古田は、もはや部下に頼ろうとしなかった。手にしていた日本刀に手をかけ、意味不明の大声とともに抜きはなった。足もとにはいつくばっている手下の顔に、鞘《さや》をたたきつけ、不幸な男は鼻血を噴きだして完全にのびてしまった。  続はむしろ感心した。部下がいなくなれば古田自身も逃げだすかと思ったのだが、とにかく踏みとどまり、戦おうとしている。虚栄心の結果であるとしても、上に立つ者の立場は心えているようであった。  続としては、自分が尋常な人間でないことを一度見せてしまった以上、それを逆手にとるしかない、と思う。それでも、とっさの判断がつかずにいると、突然、古田のすさまじい気合がとどろいた。古田は武道に通じていた。武道で精神を向上させることなどなかったが、とにかく居合道四段である。一瞬の間隙に、彼は自分の日本刀を抜き打ったのだ。  刀身は、室内の光をはじきながら、続の左の腰に撃ちこまれた。  続の胴は両断されて地にころがるはずだった。古田はそれを確信し、ほとんど血に酔う表情をみなぎらせた。  だが、刀身は、音をたててはじきかえされていた。金属音ではなく、もっと澄んだ、水晶球を衝突させたような音だった。白刃は二つに折れとんだ。  続はわずかに眉をしかめただけである。  古田の両眼は、柄元にのこった刃に吸いつけられた。それはむろん、血や肉片をまとわりつかせてはいなかった。布地の切れはしが落ちたあとに、刃こぼれした刀身の弱々しい光が残った。  統は、切られたシャツの裂け目から、真珠色のわずかなかがやきがこばれているのをながめたが、小さくため息をつくと、自失した古田に平手打をたたきつけた。  古田の巨体は、折れた日本刀を手にしたまま、後方へ吹きとんだ。金粉をちりばめた悪趣味な襖《ふすま》を突きやぶり、隣室の日本間へ転げこむ。  畳の上を三転四転して、ようやく起きあがったとき、古田の顔は、すさまじい恐怖と敗北感に塗りつぶされていた。洋風の|撞 球 室《ビリヤード・ルーム》から、ゆっくりと畳の間にあがりこんだ続の姿を、錯乱寸前の目で見つめる。だが、つぎの瞬間、表情が一変した。部屋の隅に駆けよると、何か大きな人形のようなものを両手でかかえた。  それが、気を失ったブレザー姿の少女であることを知って、続は足をとめた。竜堂兄弟が救出しようとしている麻田絵里だ——少年のように短く刈られた頭髪でそれがわかった。 「さあ、来るなら来てみろ。この小娘の咽喉骨をにぎりつぶしてやるぞ。それがいやなら、そこにすわって両手を後ろにまわせ」  二死無走者からの逆転を確信してわめきたてる古田の両眼が、脂っぽい光にぎらついた。 「それが自称愛国者のやることですか」  続は、はきすてた。白い秀麗な顔に、怒りというより嫌悪の色が薄赤く昇《のぼ》っている。 「亡くなった祖父が言っていました。世のなかには、だまされるほうが悪い詐欺師が二種類いる。この投資は安全でかならずもうかる、という奴と、自分は国を愛している、と、大声で宣伝する奴とだ、と。あなたは、そのなかでも。よほど悪質なようですね」  続にどうののしられようと、古田としては少女を離すわけにいかなかった。これが自分にとって最後の防壁であると信じたからだ。 「この娘が死んだら、きさまの責任だぞ。きさまは一生、残酷な人殺しとして、夢にうなされる人生を送ることになるんだ。それでもかまわんなら、近づいてこい」 「あいにくと、ぼくは、それほど責任感の強い人間じゃないんです。その娘を殺すのは、あなたであって、ぼくじゃないし、あなたの言うなりになる不快感に比べたら、顔を見たこともない女《ひと》が死ぬ不快感なんて、小さなものですよ」  本心ではないが、あえて冷然と言い放つと、続は一歩踏み出した。賭けに敗れたか、と思ったのは、逆上した古田が、少女の咽喉にかけた手に、力をこめたのを見たからである。心が冷えた。失敗したのだろうか。  ひゅっと、口笛を鳴らすような音がして、古田の太い頸《くび》に、黒い蛇のようなものが巻きついた。聞きぐるしい悲鳴をとばして、古田の身体は、人質の娘からもぎ放され、半ば宙をとんで、部屋の中央部へ引きずられていった。 「始《はじめ》兄さん、遅いですよ!」 「すまんすまん、まあ許せ。遅すぎなかったということでな」  長い革紐は、破壊された撞球室にまでのびていて、その先端は、竜堂始の手ににぎられていた。  続は、ぐったりした少女をだきおこして、軽く頬をたたいた。失神はごく浅かったようで、少女は薄く両眼をひらいた。瞳の焦点がさだまり、意識が秩序をとりもどすと、小さなおどろきの声をあげる。安心させるために、続は笑ってみせた。 「麻田絵里君ですね、助けにきました」 「……あの、竜堂続さんですか、うちの高等科の先輩の?」  少女は熱心な口調になっていた。奇妙な方向へ、意識が現実化したようである。 「ええ、竜堂続です。終の兄です。でも、どうしてぼくのことをご存じですか」  いまや、少女は目をかがやかせていた。 「ええ、あの、とってもかっこいいし、成績だってごりっぱだし、わたしの姉なんて、すごくあこがれてたんですよ」 「それはありがとう。だけどいまは、ファンクラブをつくる相談をしてる暇はなさそうですね。動けますか?」  動けない、と、少女は答えた。甘えていることはわかったが、誘拐され、髪を切られ、さらにひどい目にあうはずだった少女の不幸を思うと、突きはなすのも悪い気がする。もともと彼女は一件に巻きこまれた身なのだから。  少女を両腕でだきあげて、続は立ちあがった。始が声をかけた。 「続、玄関の脇に自動車があるから、それを借りるといい。ちょっとそこでお嬢さんと待っていてくれ。おれもすぐ行くから」  続はうなずき、少女をかかえあげたまま、台風が通過したような屋内から庭へ出ていった。  このとき、古田が虚勢の一部をようやく回復してうめいた。 「こ、こんなことをして無事にすむと思っているのか。警祭に言って、きさまら兄弟。全員、刑務所送りにしてやる」 「どうぞご自由に」 「何だと」 「そのかわり、こちらも好きにする。ここにいる不肖の息子が、父親の罪をつぐなうことになるぜ」  始の足もとに、何かが放りだされた。重々しい音は、物体のぶざまさと対照的だった。革ベルトで両手両足をくくられた古田義国である。 「誘拐監禁事件の共犯として証言をとった。すべて父親のたくらんだことで、自分は命令されただけだと言ってるが……」 「この役たたずめが!」  古田は歯をかみ鳴らした。本心から息子を憎む炎が、両眼に燃えあがった。義国は両眼をとじたままだったが、朱神をよそおっているだけで、意識をとりもどしていることは、誰の目にも明らかだった。 「宅急便一丁、暴力学生の小便あえ」  統が聞いたら眉をしかめるようなことを言ったのは、三弟の終だった。和室と|撞 球 室《ビリヤード・ルーム》の境界にたたずんで、愉快そうに古田父子をながめている。 「期待してもだめだよ、代議士さん、この屋敷の住民は、人間も犬もみんなのびているからね」  ゆっくりと和室に足を踏みいれた終が、義国の背中を靴先で軽く蹴った。蛙《かえる》がつぶされるような声をあげて、義国は身じろぎしたが、父親とは視線をあわさないよう、顔をそむけている。  失笑をこらえつつ、始が父親のほうに問いかけた。 「あんたのボスは誰だ?」 「な、何のことだ」 「あんたにできるのは、小心者の叔父をおどしつけるていどのことさ。ねらいも、学院の資産を横領しようという……それはわかるが、それだけで説明できないこともあるのでね」  関越自動車道の一件を、始は言っているのだった。古田は口を閉ざした。かたくなな決意の色を見てとった始が、弟に合図した。終が、異臭に眉をしかめながら、靴底を義国の股間にあてて体重をかけた。濁音だらけの悲鳴をあげた義国が、父親の制止より早く、助かりたい一心のわめき声をはりあげる。 「本名は知らねえ。だけど、親父は、そいつのことを御前《ごぜん》と呼んでいた。そうだ、鎌倉の御前と——」  古田は文字どおりとびあがった。全身の力を声帯にこめて罵倒《ばとう》する。 「舌をかめ、死んでしまえ、この大ばか者!」 「御前ね、またごたいそうな……」  始が半ば感心したようにつぶやいた。 「その御前とやらいう奴は、共和学院を乗っとって、何をたくらんでいるんだ?」 「し、知らん」  古田重平はみじかく断言した。これはまったく事実である。なかなか他人には信じてもらえないことだが、吉田はこの男なりに自分の分際を知っていた。というより、即物的な次元にとどまっている男なので、手のとどく範囲の権力や財産や物品にこそ興味と欲望があり、竜堂兄弟に異常なこだわりをしめす「御前《ごぜん》」の真意など知ったことではなかったのだ。  古題の表情を、数秒間、始は観察していたが、 「御前」の件を追及しようとはせず、質問をかえた。 「そうか、それじゃついでにうかがっておくがね、おれたちの家に盗聴器をしかけたのは、やっぱりあんたか?」  古田は目をむき、首を振った。高林がやったことだ、と思ったが、口にはしなかった。盗聴や情報操作は高林の得意技だった——というより、それ以外に何のとりえが奴にあるというのか。 「では誰がやったんだ?」  かさねて問われたとき、古田の脳裏にひとつの考えがひらめいた。下級悪魔めいた知恵の所産だった。彼は半ば身を乗りだした。 「高林という男だ」 「何者かね」  古田は高林の地位を明かし、御前の名はそいつが知っている、とつけ加えた。敗北は認めざるをえない。もはや権勢をすて、この国を逃げだすしかないだろう。だが、自分ひとり不幸をせおいこんでたまるものか。あの青白い不景気な面《つら》をした高林も道づれにしてやる……。 「しかし、それほど大した人間なのかい、御前とやらは」 「きさまらごときが対抗できるような御方だと思うのか。つけあがるな、青二才が」 「対抗しようなんて思ってないさ」  始は平然として答えた。 「ただ、やっつけて再起不能にしてやろうと思っているだけさ。御前とやらが、これ以上おれたちに悪さをしかけるなら、かならずそうしてやる」 「……きさま、正気か」 「あんたたちの言うなりになるのが正気なら、いっそ狂気でいたいと思うね」 「…………」 「そんなことより、自分の息子の将来を心配したほうが、いいんじゃないか」 「どういう意味だ?」 「御前とやらに問われたら、おれたちは正直に答えるつもりでね。あんたのことは古田代議士に全部聞いた、と」  古田の両眼が飛びだしそうになった。両手をにぎりしめ、それで交亙に、むなしく宙を撃ちながら絶叫する。 「おれは何も知らん。何も言っとらん」 「わかったわかった。二度と共和学院に手を出さないと誓うなら、あんたのことは忘れてやってもいいさ」  古田は誓った。国外逃亡するのだから、共和学院の件など、野とでも山とでもなってしまえばよいのだ。そこまでの心理は、始にも読みとれるはずがなかったが、彼は、古田のあてにならない誓約《せいやく》を保証する手段として、ひとつの辛辣《しんらつ》な方法を考えていた。 「終、あれを見せてやれ」 「アイアイサー」  終の手には、一0枚ほどの書類があった。それに視線をすえた古田が、もはや激発する気力もなく、弱々しい声を呪詛《じゅそ》のようにはきだした。 「か、返せ、それを返せ……」  むろんそんな雑音は無視して、始はそれらの書類に視線を走らせた。 「念書に、領収書に、誓約書。すべてあんたのサインがはいって、印鑑も押してある。むろん日付も。収賄や公金横領の歴然たる証拠がこれだけそろっていたら、まあ無事じゃすまないだろうな。あんたが誓約を破ったら、これを武器に使わせてもらう」  始の眼光も声も冷淡をきわめている。 「日本の政治ジャーナリズムは、収賄の事実を知っていても書かないことを自慢するほど腐敗しているが、例外だってあるし、野党や与党内の非主流派、それに外国のジャーナリズムに、コピーしてばらまけば、かならず反応があるさ」 「畜生……」 「すてきなあいさつだね。それじゃ、終、もう夜も遅いし、そろそろ失礼しよう。留守番の余《あまる》も待ちくたびれているだろうしな。ああ、ちゃんと戸を閉めていかないと礼儀に反するぞ」  竜堂兄弟は出ていった。フランス窓を閉める音がおこって消えると、古田邸は、夜と静寂と荒廃のなかに取り残された。  革ベルトで縛りあげられたままの義国が、巨体をころがして父親に近づき、自分の責任を忘れて詰《な》じった。 「親父、どうするんだ、どうするんだよ、おれたちはもうおしまいなのか?」  古田は答えなかった。息子に対する憎悪と怒りを圧倒する絶望の底に、彼は力なくわだかまっていた。  ……古田邸の門が内側から開き、一台のベンツが走り出た。始が運転し、助手席に終がすわっている。後部座席には続が腰かけ、そのひざに頭をのせて麻田絵里が眠りこんでいた。その身体には毛布がかかっている。 「その書類は必要なかったかもしれませんね。古田代議士がああも醜態をさらけだした以上、その御前とやらが彼を放置しておくはずもありませんから」 「かもしれないな。だが、まあ、用心にこしたことはないさ」  夜道を走りつづけるベンツの車内に、一瞬、沈黙が満《み》ちた。それを破ったのは、ややためらいがちな続の声である。 「兄さんは、ほんとうに、御前[#「御前」に傍点]とかいう人物と、事をかまえるつもりですか?」 「主語がちがうよ、続」 「え?」 「御前とかいう奴のほうが、おれたちを放っておかないさ。古田がああなった以上、別人の手を使って何かしかけてくるだろうよ。それにしても……」  ハンドルをにぎったまま、始は苦笑した。 「そのお嬢さんにも、くれぐれも口どめしておく必要は、重々あるだろうな」       ㈽  内閣官房副長官の高林健吾は、干代田区紀尾井町のマンションに個人事務所をかまえている。古田代議士父子が、明るくも楽しくもない名誉回復の計画を練《ね》ったあげく、みじめに失敗したその同じ夜、ひとりの男が高林事務所をおとずれた。  警視庁機動隊の出身で、日本でも有数の警備保障会社を経営する奈艮原《ならはら》昌彦《まさひこ》だった。柔道の全国選手権大会に入賞したこともある。厚みと幅のある巨体は、古田義国あたりにも劣らない。  低頭する奈艮原を、実用一辺倒のソファーにすわらせ、高林は葉巻をすすめた。 「じつは、奈良原君の力を借りたいことがあってな、ご足労《そくろう》ねがった」 「政府のご用で?」 「政府の用ではない。いや、どこか奥深くではつながっているかもしれんが、さしあたりはそうではない」 「とおっしゃると、あの方《かた》の……」 「そうだ、鎌倉のご老人のご用でな」  奈良原は唾をのみこむ音をたてた。ぎこちなくうなずくと、姿勢を正す。 「どうぞ何なりとお申しつけください。私ごときは、もう、副長官のおっしゃることに忠実にしたがう能しかございませんので」 「信頼させてもらおう。ところで、正直なところを聞きたいのだが、君は代議士の古田重平とは知合だったな」 「はい、さようで」 「どう思うかね、彼について」  問われた奈良原は、紫煙をはきだした。 「正直申しあげると、古田という人には、行動力と腕力はあります。ですが、度というものに縁がなさすぎるようですな」 「度?」 「節度[#「度」に傍点]、程度[#「度」に傍点]、限度[#「度」に傍点]……まあ、そういったものです。五、六十年早く生まれていれば、中国大陸あたりで豪傑ぶっていられたかもしれませんが、二一世紀の政界では通用しますかどうか」 「じつはな、鎌倉のご老人は、古田代議士を切りすてるおつもりだ」 「ほう……」 「古田代議士も、何かと役にたってはきたが、長く使った下水管には汚泥《おでい》がたまるものだ。そろそろ交替の時機だろう、と、ご老人はおっしゃる。私も同感だ」  酷薄《こくはく》な微笑が高林の唇にたゆたい、奈良原は心のなかで冷汗をぬぐった。もし古田に好意をしめすような返答をしていたら、と仮想すると、平静ではいられなかった。 「で、いま、君はどのていどの人数を動員できる?」 「わが社も、現在では電子工学を駆使したセキュリティ・システムに比重がうつっておりましてな。ですが、伝統的な力業《ちからわざ》のほうでも、ガードマンを一二〇人、警備犬を五〇頭はすぐに動かせます。不足なら、学生アルバイトを三〇〇人ぐらいは用意いたしましょう。 「実力のほうは信用できるか」 「それはもう、武道の有段者であることを条件にしておりますからな。思想的にも健全で、左翼的傾向のサの字もありません」 「けっこう。今月いっぱい、いつでも動員できるようにしておいてくれ」 「かしこまりました。ですが、それほどの人数を動員するとすれば、相手もなかなか手ごわいのでしょうな。極左過激派の残党ですか? 人数はいかほど……?」 「四人だ。そのうちふたりは子供」  奈良原は失笑しかけてやめた。高林は、真剣な話をして笑われるのが、トマトのつぎにきらいだった。そのことを奈良原はよく承知していた。とにかく高林が、相手を高く評価していることはたしかなのだ。某国の破壊工作員との暗闘でもあるのだろうか。 「万事、副長官のおおせにしたがいます。それで、そいつらのアジトなりを盗聴したりする必要はございませんか」 「電話では大したことは何もしゃべらん。すでに家の内外に一〇個ほども盗聴器をしかけたが、すべて役たたずにされた。どうも、尋常な奴らではなさそうだ」  彼らが語りあっているのは、非合法な行為についてだが、両者ともそんなことは意に介しなかった。二流以下の権力者が、多くそうであるように、彼らも、権力に近い者は法を順守する義務などないと考えていた。 「副長官がそうおっしゃるのですから、たしかに尋常な相手ではなさそうですな」 「だから、夷《い》を制するに夷をもってする。そいつらを利用して、古田を破滅させるのだ」  高林は低く笑った。 「然《しか》る後に、古田を害したことを理由に、そいつらを処断する、というわけだ」 「なるほど、副長官のご深慮《しんりょ》、私など遠くおよびません。おそれいりました」  奈良原のへつらいは、的をはずしたが、高林は心地よくそれを受けた。奈奥原などに事実と真実のすべてを知らせる必要はない。 「ところで、いったんそいつらを処断するとなりましたら、多少、痛めつけることになってもよろしいですか」  奈良原の声と表情に、期待がこもった。高林は、室内を遊泳する葉巻の煙を、なぜともなくながめやった。 「そうだな、殺してはいかんが、猛獣を調教するためには鞭も必要だ。君が必要と思うなら、また逃亡や反抗を阻止するためなら、痛めつけてもよい」 「それは楽しみですな」  奈良原の両眼が陰惨に光って、サディストの本性をむきだしにした。 「学生運動などやっている奴らの口に特殊警棒をねじこみ、外に出ている警棒の端を思いきり下へたたきつけると、奥歯など簡単にくだけ、上あごの内側にひびがはいって、へらず口などたたけなくなります。昔はよくそうやって、国家の敵を痛めつけてやったものです。口から顔の下半分を真赤にしてころげまわるありさまが、じつに愉快でしたな」  高林は顔をしかめた。奈良原のように、残忍な行為を具体的に描写されると、生理的な嫌悪感を禁じえなかった。弾圧も、謀略も、情報操作も、彼にとっては書類とデスクの上だけのことで、だからこそ平然とそれをおこなえるのだった。 「まあ、ほどほどにな。たとえ痛めつけるにしても、御前のお楽しみを奪うようなことになっては、私がご不興《ふきょう》をこうむる」 「こころえております。具体的なご指示をお待ちしております」  奈良原は深々と頭をさげた。 [#改ページ] 第五章 灰色の黄金週間       ㈵  保守党代議士古田重平氏のあわただしい出国は、さしあたり大きな話題にはならなかった。国会は休会中で政界は比較的、平穏であったし、商業ジャーナリズムは、一流ファッション・デザイナーの殺人疑惑と、高名なプロ野球選手の結婚式と。ふたつの話題を追って狂奔《きょうほん》していた。国民的タレントでもない、ごつい中年の政治家が消えたところで、失望して泣きわめく人もいない。支持者や同僚が気づいて話題にするとしても、しばらく時間がかかるだろっ。  だが、早期にそれを知って狂喜する人もいた、鳥羽靖一郎は、その当日に古田邸へ呼びだされており、おどおどと出かけていったが、門扉はかたく閉ざされ、ドアホンも無言のままであった。古田の選挙区の事務所にも連絡してみたが、事務所員のほうがむしろ不在をおどろいているようだった。結局のところ、内閣官房副長官の高林から、ようやく、古田出国の極秘情報を受けることができたのだ。  古田代議士の凋落《ちょうらく》は、どれほど鳥羽靖一郎を歓喜させたことか。彼の現在と未来をおびやかしていた貪欲《どんよく》な肉食獣が、突然、消えてしまったのだ。彼が何ら手を下したわけでもないのに。  鳥羽靖一郎は、顔の色つやまでよくなり、食欲と体重が増加した。両眼から卑屈さが失《う》せて、かわりに自信満々の光がみなぎった。背すじが伸び、足どりも軽く、声は大きくなり、食事どきには鼻唄までとびだすという変貌ぶりである。 「あまりはしゃがず、ほどほどになさいね、お父さん。跳《と》びあがるのはいいけど、着地したとたんに足首を捻挫《ねんざ》することが多いんだから」  娘の茉理《まつり》に皮肉られても、もはや、靖一郎は意に介さなかった。古田父子が日本へもどってくることは、もはやないだろう。帰国すれば旧悪のかずかずをあばかれて逮捕されるに決まっているのだ。アメリカでもブラジルでも、好きなところへ行ってしまうがいい……。  靖一郎の恩人である竜堂兄弟は、自分たちの功績を叔父にむかって語ることなど、むろんしなかった。長兄の始《はじめ》は、理事を解任された不満を口にすることもなく、一介《いっかい》の講師として、新学期の勤務を開始している。彼の地位がどうであろうと、過去の世界史に変動が生じて、ナポレオンがワーテルローで勝利するわけでもない。  そう思っていたのだが、変動が生じたのである。過去ではなく現在において。  靖一郎は、気温が上昇するにつれ、自信を増大させていき、自分が実力にふさわしい運と、運にふさわしい実力とを、ともに持ちあわせていると思いこむようになったようであった。  ゴールデンウィークをひかえて、竜堂始は、高等科の科長——つまり校長に呼びつけられた。先代の院長である始たちの祖父に認められた、ごくまっとうな教育者であったはずなのだが、現院長である靖一郎からウイルスを空気感染させられた結果、教育者としての自尊心を減少させ、その分、管理職根性を成長させてしまったようだった。梅雨が近くなるとバイキンの活動がさかんになりますね、と、言ってやりたいくらいのものである。 「竜堂講師、君の授業のやりかたに対して、このごろ不満が表面化している。年代もおぼえないし、他大学を受験する成績優秀な生徒から抗議がきておるんだよ」  口調まで、以前と異なる。ことさら「講師」というあたりが、始の現在の地位をあざけっているかのようだ。 「それに、生徒の生活面で、いちじるしく指導が甘いね」 「そうでしょうか」 「靴下を三つ折りにしていない生徒を見つけながら、何も注意しないそうじゃないか。怠慢じゃないかね」 「おことばですが、だいたい、靴下を三つ折りにしないと、誰かが迷惑するんですか?」  始は不恩議なのである。ルールというものは、他人に迷惑をかけないために存在するのであって、実際、祖父の生前、共和学院の校則といえば、「他人に迷惑をかけない。社会のルールとマナーを守る」という二点のみだった。叔父が院長になってから、やたらと校則がふえたのだ。  気をつけのときに爪先を三〇度に開く、とか、靴下は三つ折りにするとかいったヒステリックな校則はなかったし、教師と刑務所看守との区別もつかないような教師はいなかった。服装を乱したりタバコを喫《す》ったりすることで、息ぐるしい校則に反抗してみせる生徒もいなかった。そんな形で反抗する必要はなかったのだ。 「……竜堂講師、君は教師であるくせに、生徒に秩序を守らせるつもりがないというのかね。適性に疑間を感じざるをえんな」  高等科長の顔に、どす黒い悪意の縞模様がうかびあがっている。教育者の顔ではなかった。  もともとこの人に反感をいだいてはいなかっただけに、始は、その変容を見て索然《さくぜん》とした。叔父の院長がああでも、高等科長は始の授業のやりかたを理解してくれているだろう、と思っていたが、これまた甘かったようである。考えてみれば、高等科長も、自分の地位を守るために院長に忠誠心をしめさなければならない立場なのだ。多くの公立学校の校長が教育委員会の顔色ばかりうかがっているのと同じである。 「おれの授業や試験のやりかたがまちがっているとは思わないけど、いまどき少数派であることはたしかだからな。他人に理解や協力を強要することもできないさ」  始はそう思う。自分が何かを押しつけられるのがきらいだから、他人に自分の理想を押しつけるのもいやなのだ。だが、気分としては、むろんおもしろくない。  始にとって、まことに不愉快なのは、始が理事としての地位を失ったことが、この種の教師たちにとって、免罪符になっているような一面を感じるからだ。 「最低の歌手が最低の人間であることはないが。最低の教師は最低の人間だ」  と、生前、祖父は言っていた。これは教育者としての自戒のことばであったのだが、一九八O年代には日本全国でその表現が現実のものとなり、直接間接に生徒を死にいたらしめる教師が急増して、誠実な教師たちの眉をひそめさせた。愛知県の公立校では、「下着の色は白」と校則でさだめ、教師たちが女生徒のスカートをぬがせてパンティーの色をたしかめる、というような正気の沙汰とも思えないできごとがあった。それも、共和学院からみれば外界のできごとだったのに、その風潮がどうやら塀をのりこえて侵入してきたようなのだ。 「たまらんなあ……」  高等科長室から出て、廊下を歩きながら、始は腕ぐみした。叔父と対決して、学院の建学の理想をよびもどすか。沈みかけた船をすてて新天地を求めるか。どちらもそれぞれにうっとうしいが、どちらかを選ばねばならない時が、急速に接近しつつあるようだった。叔父がそれを甥に強要しつつある。  こうなると、古田重平という暴力派の悪徳政治家は、靖一郎の暴発をおさえる箍《たが》であったのかもしれない、という気すらする。あるいは、古田にとりついていた躁病《そうびょう》的な権力汚染ウイルスが、靖一郎に感染し、免疫のない患者を重症に追いこんだのかもしれなかった。  竜堂家の四兄弟は、全員、共和学院に所属しているから、 「始兄さんが講師まで解職《くび》になったら、ぼくたちはどうなるんだろう」 「そうだな、さしあたり、おれたちの身上書で、保護者の欄に『無職』って書きこまなきゃならないな」 「そのうち『住所不定』にもなるかもしれないね」  などと、年少組は危機感のないことおびただしいが、実際このまま、叔父の攻勢を黙視していたら、どこまで生活権を侵害されるやら、知れたものではない。 「甘かったのは、こちらのほうか」  と、いささかにがい思いに始は駆られはじめていた。  あきれる間もなく、事態は急進展して、四月のうちに、始は院長室に呼び出された。  院長室のデスクは、先代以来の、古いが堅牢《けんろう》な桜材のものであったはずが、いつのまにか、英国製のマホガニーの新品に変わっていた。そこに、ややぎこちなく座をしめた鳥羽靖一郎は、入室した始に椅子もすすめず、いきなり口を開いた。 「君には、一学期までで講師の職をおりてもらうことになりそうだな。高等科長からそう具申《ぐしん》があったのでは、私としてもかばいきれない。組織の上に立つ者に、公私混同があってはならないからね」 「りっぱなご意見です」 「ほう、そう思うかね」 「前院長の女婿《むすめむこ》という理由で、理事から院長になった人のことばとも思えません」  言いおえたときに、始は自己嫌悪に駆られた。どう考えても、次元の低いいやみだった。だが、だからこそ、靖一郎にとっては刺激的だったのだ。彼は怒りと動揺のために、顔を赤紫色にしてだまりこんだ。それとこれとは、この際、関係ない——そう突っぱねればすむところなのだが、とっさにそれができないのが、よきにつけ、あしきにつけ、靖一郎の限界なのであろう。 「……そ、そうだ、もうひとつ、君に言っておくことがあった」 「何です?」 「茉理に近づくのは、今後やめてもらおう」 「…………」 「だいたい、あれの善意をいいことに、嫁入り前の娘に、家事をさせて平然としている神経は、まともなものじゃない。今目から先、茉理に竜堂家の門はくぐらせんからそう思ってくれ」  始は、まじめな表情になった。 「茉理ちゃんの善意に甘えていた点は、たしかに反省します。ですが、これは茉理ちゃんと叔父さんの問題なのではありませんか」 「命令だ。茉理に近づくな」 「ぼくが講師をやめるとしたら、院長とは無関係になります。どういう権限で、ばくにご命令なさるんですか」 「私は娘《あれ》の父親だ!」  靖一郎は、どなった。どなられたほうは、かるく眉をあげただけだったが、どなったほうは顔色を赤紫から青へ急変させた。あまりに慣れないことをしてしまったので、自分自身でうろたえてしまったのだ。狼狽し、逆上したあげく、靖一郎は、態勢をととのえようとして失敗し、いわば前方へ倒れこんでしまった。あやまるわけにもいかず、かえって、どぎついことを口にしてしまう。 「古田代議士のばか息子のほうが、君らにくらべれば、まだましだった。どれほど粗暴で下劣でも、すくなくとも、あいつは人間だったからな」  ぎょっとしたのは、発言されたほうではなく、発言したほうだった。自分自身の声の軌跡《きせき》を追うように、始を見やる。始は表面、おちつきはらっていた。 「どういう意味でしょうか、いまのおことばは?」  声は静かだが、その両眼を見たとたんに、靖一耶は身動きできなくなった。肥大しきっていた自信が、針でつつかれた風船のようにしぼんで、彼は古田代議士がいなくなって以来はじめて、恐怖まじりの後悔にとらわれた。残念ながら、時を逆転させるカは、靖一郎にはないので、何とかとりつくろわねばならない。 「わ、私は知ってるんだ」 「確認したいですね。知ったのですか、それとも、教えられたのですか」  あいかわらず声は静かであり、表情はおちついていたが、叔父に対する圧迫感の強大さは、たいへんなものだった。 「だ、誰に教えられたわけでもない。私は知ってる、ただそれだけだ」 「ああ、そうですか。で、何をご存じだとおっしゃるんです?」  このあたり、質問の順序がいささか混乱しているのだが、半分は意図的である。  靖一郎は、完全に始のペースに巻きこまれてしまった。院長として、また叔父として、弱い立場の始に引導《いんどう》をわたしてやるつもりだったのに、始の眼光ひとつで、強いはずの立場をひっくりかえされてしまったのは、見苦しいかぎりだった。もっとも、これは、靖一郎が根底《こんてい》からの悪党ではないという証明になるかもしれない。気分と情勢判断しだいで、どちらの方角へでも転ぶのである。  だからといって、始には、叔父の甘い情勢判断を滴足させてやる義理などないので、窒息寸前の金魚みたいにあえいでいる叔父をにらみつけて、さらに質問しようとした。  ノックの音がひびいた。一瞬の空白をおいて、靖一郎は、救いのロープにとびついた。 「はいりたまえ!」  ほとんどわめくような声に応じて、三〇歳すぎの女性秘書が、不審そうな表情をかくしつつ顔を出した。 「あの、院長先生、奈良原とおっしゃるお客さまがお見えになりました。アポイントメントをとってあるそうですけど……」 「おお、そうだった、忘れていた。すぐおとおししてくれ」  表情と声をけんめいにつくろって、 「始、ではない、竜堂君、今日のところはここまでにしておこう。帰ってよろしい。後日、また連絡するから、帰ってよろしい」  勝手きわまる言種《いいぐさ》で、すでに腰を浮かしている。  無言で、始は一礼した。叔父の醜態を見ていると、あくまでも追及する意思がしぼんで、あほらしい気分のほうが強くなってしまうのだ。自分たち兄弟に敵がいるにしても、それはこの人ではない、と思う。  院長室を出るとき、始が背に感じたのは、安堵《あんど》して顔の汗をふく叔父の、気が小さいくせに狡猜《こうかつ》そうな視線だった。彼といれちがいに入室していった男が、ちらりと視線を送ってきた。見おぼえのない顔だった。       ㈼  その後、竜堂家に対する攻撃は、意外な形であらわれた。  その日、ゴールデンウィーク前に生活費と娯楽費をまとめて手もとに置いておくため、午前中で授業がおわった三男坊の終《おわる》が、銀行へ出かけていった。ところが、キャッシュ・カードを機械に入れても、カードがもどってくるのだ。終に問われた行員は、ごく事務的に答えた。 「このキャッシュ・カードは無効になっております」 「無効!? 何でそんなことになるのさ。暗証番号だって正確だし、預金残高だって充分あるはずなのに」  終は行員をにらみつけた。長兄の眼光にはおよびもつかないが、一五歳の少年にしては強烈な目つきで、行員はあきらかにたじろいだ。  一〇分以上も終を待たせたあげく、年長の行員がやってきて終にカードを返しながら、口調だけはていねいに、だが犯罪者でも見るような目つきで少年を見やって、一方的に事情を説明した。 「不審な点がございますので、お客さまの口座を封鎖させていただきました。あしからずご諒承ください」 「不審な点って?」 「お答えいたしかねます。上層部からの指示でございまして、私どものような下っぱには事情がわかりません」 「じゃ、上役を出してください。支店長さんか誰かを」 「ただいま重要な来客がありまして、席をはずすわけにまいりません。いずれ当行よりご連絡させていただくと存じますので。今日のところは、お客さま、おひきとりいただきますよう」  内心はともかく、顔にはどこまでも薄笑いをたたえて言うと、中年の行員は一礼して背を向けた。  その背を蹴とばしてやりたいところだったが、そうもいかず、債然として終はその銀行を出た。  閉店まぎわに駆けこんだもうひとつの銀行でも、損保《たんぼ》なしで借金を申しこんだようなあしらいを受け、終は、憤然と憮然《ぶぜん》をごった煮にした気分で、ひとまず帰宅せざるをえなかった。帰宅して、ことのしだいを兄たちに訴える。 「兵糧攻《ひょうろうぜ》めできたか」  始は頭の後ろで両手の指を組んだ。 「陰険ですけど、効果的な方法ですね」  テーブルの上に並べた茶椀につぎつぎとお茶をそそぎながら、続《つづく》が論評した。生活費がなかったら、竜堂兄弟の行動は、心理的にも物理的にも、いちじるしく制限されてしまう。「敵」の本体は、銀行を裏面から動かして、預金を封鎖させてしまうほどの影響力を持っているというわけだ。あらためて、始は自分たちの境遇のあやうさをさとった。 「そうだ、こういう策《て》もあるな。いままで気がつかなかったのが、うかつだが……」  銀行員が、コンピューターを操作して、他人の預金口座から不法に預金をひきおとし、竜堂家の預金口座に振りこむ。逮捕された銀行員が、竜堂兄弟が共犯だと自白する。当然ながら、竜堂兄弟のうち年長のふたりは、横領の共犯として逮捕されてしまうだろう。それぐらいの力は「敵」にはあるはずだ。 「そんなむちゃくちゃな話があるかい」 「終君がむちゃだというのは、可能性についてですか、道徳性についてですか」 「両方さ」 「でも、今日の件だって、充分にむちゃくちゃですからね。ぼくたちは、当然、自分たちのものであるはずの預金を、現にひきだすことができない。このまま日がすぎれば餓死してしまうし、かといって実力行使に出れば、あちらの思うつぼです」  実力行使、ときいて、終と余《あまる》が、いささか危険な目つきで笑いあった。 「君たち、やるのはかまいませんが、つかまっちゃいけませんよ。もしつかまったら、黙秘権を行使しなさい」  弟たちにそう言った続が。兄のほうを向いて、どういうことでしょうね、と問う。 「まあ、示威《じい》行為という面がひとつ、取引材料という面がひとつだろう。おれたちを餓死させるところまではいかないと思う。そのうち何か接触してくるだろう」  すると、末っ子の余が、きまじめな顔つきで悲観的な予言をした。 「でも、餓死までいかなくても、栄養失調ぐらいにはなるかもしれないよ」 「なってたまるか!」  終がうなった。  その日はどうすることもできず、残りすくない生活費で夕食をすませ、翌日の日曜日、明日もう一度銀行へいこうかと話していると、 「あ、よかった、みんなまだ餓死してなかったのね」  いささか不吉な台詞《せりふ》を明るく言ってのけながら、紙袋をかかえて、従姉妹の鳥羽茉理が姿をあらわした。すでに昼近くである。 「ほら、何でも出てくる魔法の紙袋を持ってきたわよ」  テーブルに並べられたのは、その場で欠食家庭を緊急救助できる物資の山だった。何種類かのハンバーガーがダース単位でつみあげられ、コーラの大瓶も三本。 「茉理ちゃん、君は女神さまです」  と、続が両手をあわせるまねをした。 「何がおこったか、だいたいのところは余君から電話で聞いたわ。始さん、父の陰謀だと思う?」 「叔父さんが銀行にそこまで支配力を持っているとも思えないね。他の、もっと、陰険で、あくどいやつのしわざだろう」 「父の場合は、単に、そういうやりくちに気づかないだけかもしれないわね」  手きびしい諭評を、娘は下した。 「それはともかく、よかったら、これ費って」  そう言って茉理が差しだしたのは、分厚くふくれあがった封筒だった。始は、口のなかのハンバーガーのかたまりを、むりやりのみこんで、コーラで咽喉をなだめてから、封筒を受けとり、なかをのぞく。 「魔法の紙袋につづいて、魔法の封筒か。どうしたんだい、こんな大金」 「母がね、以前、わたしの名義で、郵便局に定額貯金をしておいてくれたの。一〇〇万円ちょうどあるわ。いまのところ、わたしには必要ないお金銭《かね》だから、始さん、費《つか》って」  たしかに、郵便局の定額貯金というのは、飢餓作戦の立案者にとっても盲点だったであろう。まして茉理にまでは目がいきとどかなかったとみえる。それとも、あるいは、これも計算内のことで、とことん竜堂兄弟を追いつめる意思はないということだろうか。だとすれば、示威としての面が強く、おどしをかけた上で、恩着せがましく接触を求めてくるかもしれない。  いずれにしても、行動の自由を保障するのは、この際、現金である。始は、いまさら悪びれなかった。 「茉理ちゃん、ここはありがたく借用させてもらうよ」 「そうよ、気にしないでね。ちゃんと利息は払ってもらうから」 「利息どころか。倍にして返すよ」  始は、へたな詐欺師のようなことを言ったが、感謝の気持に嘘はない。茉理は、おうように笑ってみせた。 「一八歳にして債権《さいけん》者になるって、悪い気持じゃないわよ。利息がたまるのを楽しみに、ゆっくり待たせていただくわ」  茉理が帰ったあと、竜堂家の年長者ふたりは、祖父の書斎に移った。年少者ふたりは、まだ育ちざかりの食欲を満足させるのにいそがしく、食堂に残っている。 「茉理ちゃんは、やっぱり傑物ですね。とんびが鷹を生むということわざのいい例ですよ」 「まあ、とにかくこれで餓死はせずにすむし、活動資金もできたわけだ」  あえて茉理の恩義にはふれず、始は古ぼけたソファーで脚を組んだ。 「これがなくならないうちに、飢餓作戦の主謀者に相応の処罰をくれてやるべきだろうな」  家訓はともかくとして。竜堂家の家風は、もともと無抵抗平和主義ではない。ごくおとなしそうに見える末っ子の余《あまる》にも、ひとつならず武勇談があるのだ。兄たちにくらべて目だたないだけである。 「でも。相手は銀行を裏から支配できるほどの勢力家らしいですよ。まかりまちがうと、日本そのものを相手どることになるかもしれません」 「そのときは、日本を出るさ」  あっさりと、始は言いはなった。動揺の気配もないのは豪胆だからか、鈍感だからか。 「おれたちが日本で平穏に暮らしたいと思っているのに、日本のほうがそれをじゃまするなら、何もこちらから頭をさげて融和《ゆうわ》を求める必要はない」 「ただ逃げだすんですか」 「まさか。どうせ逃げだすんなら、それまでに、宿題と予習復習は全部すませておくさ」  額に落ちかかる髪を、わずらわしげにかきあげる。 「しかし、そう先走る必要もないな。軍資金のスポンサーに迷惑がかかってもこまる。まず、事ここに至った事情を整理して分析してみよう。そもそも、何だっておれたちは、こういう目にあわなきゃならないのか」  それを追求していけば、結局、竜堂家自体がかかえる秘密に行きついてしまうが、問題はその手前にある。その秘密を、誰が知りたがっているのか。知りたいあまりに、圧迫を加え、不当に干渉してくるのか。 「御前《ごぜん》、とかいう人物が、結局、かなり大きな鍵《かぎ》を両手でかかえているんでしょうね」 「午前さまだか午後さまだか知らないが、上野動物園でも見られない珍獣が、日本にはうろついているらしいな。肉を食べたら、たぶん中毒するだろうよ」  おもしろくもなさそうに、始は笑った。 「古田代議士が言っていた高林とかいう公安官僚と、ぼくたちの敬愛してやまないりっぱな叔父さん。結局、御前とやらいう山に登るルートは、このふたつでしょう」  続の意見に、うなずきつつ始はもう一度苦笑してあごをなでた。 「おれは鳥羽の叔父さんを、たしかにすこしは尊敬しているよ。茉理ちゃんみたいな娘をつくったのは、お手柄だからな」  小心な叔父が、妻の一族——つまり竜堂家に奇妙なコンプレックスをいだいていることを、始は承知している。そのコンプレックスが、実の娘にまでおよぶことが、叔父の身にすれば、いまいましくもあり、なさけなくもあるだろう。  そのコンプレックスを解消するためには、彼の手によって、共和学院を拡大発展させるしかない。と、叔父は思いこんでいるのだ。始にはそれがわかるので。うんざりしながらも、とことん叔父を憎む気になれない。続のほうも、基本的には兄と同様だが、もっと雫辣《しんらつ》で容赦のない一面があるので、もし兄が許可を出したら、かなり徹底的な「報復の権利」を叔父に対して行使するだろう。 「続兄貴は、銀行強盗にはいるときでも、『金銭《かね》を出せ』とは言わずに『お金銭を出してください』と言うんだぜ、きっと。そういうタイプが、じつは一番こわいんだ」  終がそう言ったことがある。続は、否定しようとせず、声をたてずに笑っただけだった。実際、続の気性は、外見からは想像もできないほど烈しい。高等科にいたころ、裏街を歩いていて、他校の生活指導の教師に、いきなり髪をつかまれたことがある。茶色っぽい髪をしていたので、髪を染めているものと思われたのである。「茶色っぽい髪は黒く染めろ」などと、正気とも思えないことを強要する異常な教師が、大手をふってのし歩いていた当時だった。その教師も、校内では竹刀を、校外では鋏《はさみ》を、つねにもちあるいて、生徒たちにおそれられていた。 「髪なんぞ染めやがって、タレントにでもなったつもりか。丸坊主にしてやる。学校と名前を名のれ」  殆ど 暴力団まがいの脅し文旬だったが、その教師は、不当な非難をうけた少年の眼光をまともにあびた直後、意識を失った。  自分の鋏で、髪をむちゃくちゃに切られたあげく、生ゴミの袋を頭からかぶせられて気絶した教師の姿は、深夜、パトロールの警官によって発見された。彼の教え子たちは、ひそかに快哉《かいさい》を叫んだ。犯人は見つからずじまいだった。  だから、つぎのように言った続のことばには、口調に似ないすごみがあった。 「古田が言っていた、内閣官房副長官の高林に尋《き》いてみましょうか?」  始は皮肉っぼく笑った。 「古田の魂胆《こんたん》は見えすいているさ。自分ひとり滅びるのはいやだから、ライバルも道づれにしてやろうというんだ。まあ、だからといってまるきり嘘ともかぎらないが、じつのところ、御前とかいう奴の正体はこれだと思う」  始はソファーから立ちあがり、デスクの上におかれていた一冊の本をとりあげて、弟にさしだした。 「その本は?」 「古田の書斎にあったサイン入りの本だ。こいつと同じ本が、鳥羽の叔父貴の書斎にもあったのをおぼえていたのでな、無断で借りだしてきた」  本は箱入りの重厚な装槙《そうてい》で、題名は「儒教精神と日本の再建」という。ふつうのハードカバーなら五冊は買えるほど高価な本だ。コミック雑誌やアニメ情報誌など絶対に発行しない硬派として知られる出版社の本を、続は兄の手から受けとり、著者の名に目を通した。 「船津忠巌《ふなづただよし》……」  船津忠巌、九〇歳。人名録に名前が出る場合は、「哲学者、教育家」という肩書きがつく。始が知っているのは、そのていどのことだったが、いまひとつ、亡くなった祖父の葬儀に花輪を送ってくれた人のなかに、その名があった。代理人とかいう人物が香典《こうでん》も持ってきて、その人物あてに香典返しもすませている。あまり表面だって答礼をしないほうがよいだろう、と思わせる気配があり、直接、面識を得る機会はこれまでなかった。  それでも、聞くところによると、たいへんな資産家であり、二〇をこす学校法人の他に、山林、土地など膨大な資産を所有、運用しているという。  ところが一方では、それらの資産は他人や法人の名義であって、当人の個人資産はとるにたりない、ともいう。噂は多いが、どこまで事実かという点で、はなはだこころもとないのだ。 「多くの団体のスポンサーをやっているようだし、戦前からの人脈と金脈を利用して、政財界への影響もたいへんなものらしい。一種の教祖だろうな、帝王学とやらの。だとしても、どうやってそういう資産なり金脈なりを築いたんだろうか」 「哲学なんて、もうかる学問とも思えませんけどね」 「そうでもないさ。孔子《こうし》の子孫は、歴代の中国王朝と癒着《ゆちゃく》して、王侯《おうこう》にもまさるぜいたくな生活を送っていたそうじゃないか」  始の口調は辛辣である。うなずいた続が、今度は小首をかしげた。 「だけど、教育家だか哲学者だかが、なぜ、古田みたいな悪徳政治家と結びついたんでしょうね」 「べつに哲学に惹《ひ》かれたわけでもないだろう。ロープは札束と権力で編まれていたにちがいないさ。そういうローブをわしづかみするのは、古田みたいなやつの得意わざなんだろう」 「ロープを投げるほうも、そういうやつを選んで投げるんでしょう、きっと」 「……なあ、今度の件も、そのロープを投げるきっかけをつくるための小細工だと思わないか?」  思います、と、続は答えた。それは比較的、明瞭のように見える。問題は、ロープを投げてくる者の目的であり、動機である。  すると。そういった札束や権力を持った人間が、どうして竜堂兄弟の祖父とかかわったか、その疑問も生じる。政財界の黒幕、などという種類の生物は、生前の祖父が、もっとも忌みきらうところであった。 「まてよ、パターンからいけば、こういうとき、死んだ人間は日記なり手紙なりに、すべての事実と真相を書き残しているものだがな」 「お祖父《じい》さんが、ですか。ありうることですけど、お祖父さんの日記とか手紙とか草稿《そうこう》とか、そういったものに当分、手をつけずにおこうと言ったのは兄さんですよ」 「うん、いずれきちんと整理して、著作集を出版したいと思ってな。それに……」 「それに?」 「なるべくなら手をつけるな、余《あまる》が成人するまでは、と、祖父さんがおれに言ったよ。だから、もう五、六年はそのままにしておくつもりだったんだが  始は、しぶい表情で頭を振った。 「まったく、祖父さんも思わせぶりなお人だったな。結局、ほんとうにおれたちの知りたいことは大して教えちゃくれなかった」  兄の声に、考えぶかそうな目つきで、続が反応した。 「あるいは、その御前とやらいう人物が、ぼくたちについて、ぼくたち自身以上に知っているかもしれませんね」 「ふむ、ありうることだ」  始は脚を組みかえた。 「もっとも、よからぬ動機なり目的なりを持っているやつなら、何を知っているにしても、自分のつごうにあわせて、事実をゆがめて伝えるだろうな」  そのとき、書斎のドアがノックされた。満腹した表情の終が、一通の封書を持ってあらわれ、次兄の続にさしだす。 「何です、これ?」 「ラブレターだよ」 「兄弟どうしで、それは人の道にはずれますね」 「何をたわごと言ってるんだよ。いまとどいたんだ、麻田絵理からだよ。たしかに渡したぜ」  さっさと出ていく弟を、めずらしくとまどったように続は見やり、視線を封書にうつして、困惑の色をうかべた。 「古田の人質にされてたあの娘《こ》だな」 「ぼくはあの娘はどうも苦手です」 「じゃ、年増《としま》女が好みか」 「冗談じゃありませんよ。これは兄さんが茉理ちゃんを苦手だなんて心にもないことを言うのと、事情がちがいます」 「何でおれを引きあいに出すんだ。それに、おれはべつに心にもないことをいっては……」 「すみません。あやまります。でも、ぼくが、麻田絵理を苦手なのは真実です。何というか、こう、とにかく苦手ですね」  と、続は表現に困惑している。 「しかし気の毒な子じゃないか。終の同級生というだけで、誘拐された上に髪を切られちまったんだからな。それ以上のことがなかったのは、不幸中のさいわいだったが……」  まあとにかくラブレターを読んだら、といわれて、その場で続は手紙の封を切った。ひととおり目をとおすと、ため息をついて、手紙を封筒にもどす。 「デートしたいんだそうです、近いうちに」 「気が乗らないか」 「正直言ってね、何を考えてるか、ちょっとわからないところがあって……」 「女なんて、どうせ永遠の謎さ」 「他人事だと思ってるでしょう、兄さん?」 「そう思うか? ところが、案外そうでもないんだな」  いささか人の悪い笑いを始は浮かべ、すぐには話しだそうとしない。続は肩をすくめ、封書をテーブルにほうりだした。 「降参、何をご存じなのか、教えてください」 「麻田絵理という娘の両親について、ちょっと調べてみたんだ。あの娘を古田父子が選んだのは、まったくの偶然だったのだろうか、と思ったんでね」 「何かありましたか?」 「あったね。こいつはおれがうかつだったんだが、麻田絵理の父親は、わが母校の短期大学部の助教授だった」  始は苦笑した。 「考えてみりゃ、ありうることだよな。おれたちだって、一家の中に同じ学校の教師と生徒がいるんだから。短大の助教授の名前までいちいちはおぼえていなかったけど」 「……じゃ、ひょっとして、加害者と被害者が、承知の上でおしばいをしてたんでしょうか。古田とよしみを通じるのは、その父親にとって不利とは思われなかったでしょうしね」 「誘拐された本人は知らなかったかもしれんが、まあ全体として、情況は無色透明じゃなさそうだな」  古田が日本から消えても、竜堂兄弟をかこむ環境は、それほどよくなったわけではなかった。いずれ根本的に環境の改善をはかる必要がありそうだった。       ㈽  内閣官房副長官である高林健吾にとって、内閣総理大臣は、忠誠心の最大の対象であるはずだった。だが、派閥間の力学と政治資金の操作によって今日の地位をえた私立大学出身の現総理を、高林は見下している。もともと理念もなければ政策もなく、地位をえること自体が目標のように見える六〇代後半の職業政治家にすぎない。何ら建見のない男だから、官僚や財界にとってはあつかいやすいはずであった。  ところが、この日、目黒区|碑文谷《ひもんや》の総理の私邸に、内閣官房の雑務を報告におとずれた高林は、退出寸前にひややかな声で呼びとめられた。 「高林君」 「何でしょう、総理」 「この際、確認しておきたいのだがな。君の身分は、いったい何だったかね」  総理の眉と唇が、わずかにひきつっている。 「内閣官房副長官を拝命《はいめい》しておりますが、総理」 「ほう、ちゃんとおぼえているとは感心だな。昨今の君の行動を見ていると、そんなものはとっくに忘れているものと思っていた」 「私は内閣官房の一員として、総理に誠実におつかえしているつもりですが……」 「形式的には、まさにそうだろう。だが、君はここ三、四年、永田町や霞が関でなく、鎌倉のほうばかり向いて仕事をしていると、もっぱらの評判だ。この国の政治中枢は、いったいどこにあるのかね」  腹にすえかねることが、ひとつふたつではなさそうな、総理の口調である。  高林は薄く笑った。自分の背後にいる人物の権威が、彼の態度にゆとりをあたえた。 「いまのお話は、うかがわなかったことにしておきましょう、総理、それが私たち双方のためだと考えます」 「…………」 「この国が、どうにか独立国としての体裁《ていさい》をつくろうことができるのも、鎌倉のご老人が四人姉妹《フォー・シスターズ》に対して、毅然《きぜん》たる態度をおとりになっているからです。それをご不満とおっしゃるのでは、天に唾するもひとしいことになりませんでしょうか」  総理は上半身全体を使って呼吸し、椅子の肘《ひじ》かけを強くつかんだ。 「四人姉妹か。鎌倉のご老人は、四という数字に、よほどご縁がおありのようだ。現在ただいま、何とかいう四人兄弟に、えらく心をわずらわせておいでだと聞くが」  高林の両眼に、毒のこもった光がちらついた。 「そのような由《よし》ないことを、誰が総理に申しあげましたか」 「私にだって、独自の情報綱があるのだよ、高林君。君から見れば、単なる飾り物の総理にすぎんだろうが、形式的には内閣の長だし、代議士になって以来の人脈もあるからな」 「……なるほど」  高林はうなずいた。毒をこめたまま、やや眼光をやわらげている。 「で、その情報綱とやらを駆使して、何をなさるおつもりですか。鎌倉の御前に対して、忘恩のご行為に出るおつもりではございませんでしょうな」 「何もそのようなことを言ってはおらん」 「そうでございましょうとも」  露骨な嘲笑の波動が、総理の顔をうって、和服姿の総理は、老顔に血を上らせた。ひらきかけた口を、むなしくとざす。 「七〇歳近くになってようやく獲得なさった内閣|首班《しゅはん》の地位ではありませんか。一時の感情にかられて、この国でただひとつの地位を失うこともなかろうと存じますが……」  高林には、サディスティックな感情がはたらきかけたようであった。制度上の上司を、なぶるようにながめやって、 「ついに御前《ごぜん》のお許しがいただけず、総理になりたいという妄執《もうしゅう》をいだいて、空《くう》をつかんだまま死んでいった方《かた》を、私は幾人も存じあげております。それを思えば、総理はまことに幸福でいらっしゃる」  実力もないくせに一国の首相づらしていられるのは誰のおかげか、と。無言でいうのだった。 「まったく、何がご不満なのやら。日本人の大部分は、総理がこの国で最高の権力者だと信じているし、握手しただけで感涙にむせぶ善良な男女もたくさんいるではありませんか。私ごときにはうらやましいかぎりです」  総理は憎悪をこめて、制度上の部下をにらんだ。 「では、代わってやろうか。それほどうらやましいなら、代わってやってもいいのだぞ。誰もがうらやむ総理の椅子にすわってみるか」 「とんでもない、私はいっかいの官僚にすぎません。一国の総理大臣がつとまるような器量はございませんよ。分《ぶん》は心えております。そしてそれが、私だけでなく万人《ばんにん》にとっての幸福の条件でございましょうな」  うやうやしい嘲《あざけ》りをこめて一礼すると、高林は、首相の前から退出した。 [#改ページ] 第六章 対面       ㈵  首相私邸を辞した高林は、運転手に命じて、車を松濤にむけた。  かつて鳥羽靖一郎が「伺候《しこう》」したこともある屋敷である。「御前《ごぜん》」の本邸は鎌倉にあるが、東京での住居はここであった。  玄関ホールにはいった高林は、いれちがいに帰りかけた白髪の肥満した老人に出会った。  その男を、高林は知っていた。この国で、おそらくもっともいかがわしい職業——政治評論家と自称して、政府の情報操作に協力している知的ごろつき[#「ごろつき」に傍点]のひとりだった。首相や閣僚政治家を「君《くん》」づけで呼び、彼らとゴルフをしたりパーティーで同席したりしたことを自慢げにしゃべったり書いたりして、自分自身も権力をにぎったつもりになっている、羞恥心欠乏症《しゅうちしんけつぼうしょう》の重症愚者である。 「おう、高林君か、君も御前のごきげんうかがいか。まあ、しっかりやって、たまにはわしらにほめことばを言わせてくれよ」  豪快をよそおう相手に、形式だけの一礼を返して、高林はすぐ奥の座敷へ通った。 「御前」こと船津《ふなづ》忠巌《ただよし》は、何かメモらしきものに字を書きこんでいたが、新客を見ると万年筆をおき、老眼鏡をはずした。 「竜堂家の銀行預金を封鎖したそうだな」 「はい、兵糧ぜめもけっこう効果があるだろうと存じまして。効果があらわれたところで、接触の手を伸ばすつもりでおりましたが……」 「とんだ伏兵《ふくへい》がおったか」  老人は笑う形に唇をまげ、恐縮した高林は、両手を畳について低頭《ていとう》した。上目づかいにならぬよう注意しながら、老人の表情をたくみにうかがう。 「いかがでございましょう、御前、竜堂兄弟を助けるためによけいなまねをした鳥羽の小娘に、何かおしおきをくれてやる必要はございませんか。適当な罪名を着せて……」 「どういう罪でじゃ。自分名義の郵便貯金をおろしたという罪でか」  老人は笑い、高林は憮然とした。郵便局の定額貯金などという代物《しろもの》を見おとしたのは、たしかに彼の失策である。じつのところ、そんなものが存在することも彼は知らなかったのだ。鳥羽家の銀行預金や有価証券などにまで、監視の綱をかけてはいたが、小切手のような証書一枚を郵便局にまで持参すれば、その場で額面の金額に現金化できるものがあるとは知らなかった。 「秀才官僚でもすべてを見とおすことはできぬものらしいな、まあよいわさ」 「おそれいります。これはもう、してやられたことを認めないわけにはまいりません。敵ながらあっぱれでございます」 「それほど大仰《おおぎょう》なものでもあるまいが……」 「それはそれと」て、御前、私めが竜堂兄弟を直接、御前のもとへつれてまいりたく存ずるのですが、いかがなものでしょう」 「お前が直接、力ずくでか」 「はい、お許しがいただけますれば。ただ、いささか手荒な連中ですので、彼らを傷つけるおそれもございますが……」  一瞬の空白は、老人の笑声によって破られた。それはけたたましいほど高い、大きな笑声で、庭の各処に彫像のようにたたずんでいるボディガードたちが、一瞬、身動きしたほどにひびきわたった。高林は、やや呆然として、低い姿勢から老人を見あげた。 「あの兄弟を傷つけるじゃと?」  老人の笑声は容易におさまらなかった。 「おまえは自分では気づいておらんだろうが、ときどき喜劇俳擾としての素質を発揮するの。よう笑わせてくれるわい」  高林は、体内を循環する血の温度が上昇するのを自覚した。絶対者である老人に対する憤怒は、許されないことであったから、それは彼の精神世界で奇怪にねじれて、竜堂兄弟に対する憎悪に転じたかもしれない。 「しかし……あの兄弟の血縁といえば、鳥羽家の夫婦と娘じゃが……これがじつはよくわからん。あの兄弟だけがそう[#「そう」に傍点]なのか、それともあの夫婦と娘もそう[#「そう」に傍点]なのじゃろうか」  老人の疑問に、高林は答えようがなかった。第一、老人のことばには、自問の色が濃い。先刻から考えていたことを、たまたま口に出しただけであろう。 「……まあ、よかろう。高林、やってみるがいい。古田などとはひと味ちがう処理能力を見せてくれ、楽しみにしておるぞ」 「ははっ」  時代がかった応答と平伏は、老人にとっても高林にとっても不自然ではなかった。屋敷の外が民主主義社会であっても、屋敷の中はそうではなかった。平伏した高林の、やや薄くなった後頭部を老人は見やって、心のなかで独語した。 「……もっとも、肩書《かたがぎ》も権柄《けんぺい》も通用せん相手に、こやつが何かできるとも思えんが、まあよい、こやつにしてやられるていどでは、竜堂家の兄弟どもも器《うつわ》が小さすぎるというものであろうよ……」  その日にかぎったことではないが、高林は公私両面で多忙だった。紀尾井町の個人事務所にもどる途中、車内で奈良原に電話を入れる。奈良原が、いつでもガードマンを動員できる態勢にあることを確認し、竜堂家の兄弟たちを拉致《らち》するよい方法がないかどうかを、ついでのように尋ねてみる。 「私の考えを申しあげるなら、四人兄弟とやらの末弟を誘拐して、年上の三人をさそいだすのですな」 「くだらん!」  高林は、はきすてた。 「それはあの古田の低能が使った策《て》だ。しかも、ぶざまに失敗しおった。それどころか、父子ともども、くりかえし似たような策を使って、あげくが、ふん、日本にいられなくなる醜態《ざま》だ。私に、やつらの轍《てつ》をふめというのか。陳腐《ちんぷ》もきわまる」 「陳腐というのは、幾度にもわたって使われるからで、幾度も使われるのは、効果があるからですよ。ご考慮いただく価値があると思うのですが」 「ほう、きいたふうなことを言うではないか」  高林は冷笑ぎみに唇の端をつりあげた。運転手の、濃紺の背広につつまれた背中をながめながら、それでも考えこむように沈黙する。  高林は「鎌倉の御前」に権威と権力の源泉《げんせん》を求めている。それを縮小コピーすると、奈良原が高林に権威と権力の源泉を求める図があらわれる。高林のささやかな失策を知って、奈良原は自信を持ったかもしれない。  高林は、竜堂兄弟を経済的な窮状に追いこみ、精神的に追いこんで、ゆっくりと料理するつもりだった。これまで、いくつもの公安事件を、この種のやりくちで処理しているし、左翼団体にもぐりこむスパイをつくりあげたこともあった。  だが、とんでもない小さな穴から、水がもれてしまった。「竜堂家に物を売るな」という脅《おど》しが、小さな町村ならともかく。大都会で通用するはずもない以上、「飢餓作戦」の失敗は、当面みとめざるをえない。 「……では、とにかく、やつらに暴力をふるわせて、現行犯逮捕すればよろしいでしょう? あとは、こうるさい刑事警祭や検察庁の特捜部をおさえつければすむことで……副長官のご威光をもってすれば、とるにたらんことだと存じますが……」  奈良原は、多少のあざけりをこめて、たくみな追従《ついしよう》をやってのけた。高林は、気づかなかった。彼よりレベルの低い相手が、彼をあざけったり批判したりするわけがないのだった。 「そうだな、まあ、やってみろ」       ㈼  ゴールデンウィークが明けると、始は銀行へ行って、預金封鎖を解除させた。むろん、その指示が、本店からあったにちがいない。支店長は、二〇も年下の始にやたらと頭をさげ、弁解をくりかえし、いくつかの粗品を押しつけた。そのすべてに、始は興味がなかった。敵が兵糧ぜめを断念したことさえわかればいいのだ。  外へ出た始は、正確に一四歩めで立ちどまった。陰惨で暴力的な目つきをした中年の男が、彼の前に立ちはだかったのだ。もっとも、その頭頂部は、始のあごにしかとどかなかったが。 「竜堂始だな」  始は、白っぽい眼光を男にむけただけで、無言のまま歩みさろうとした。無視された男の声が、内圧《ないあつ》を高めた。 「なぜ返事をしない」 「……家訓でね、初対面の相手を呼びすてにするような奴は、猿の仲間だから返事する必要はないとさ」  男の顔を、どす黒い怒りの波が横ぎった。  通りすぎようとする始の肩を乱暴につかみ、背広の内ポケットから黒革の手帳をとりだして、始の眼前につきつける。 「おれは警察官だ」 「だったら、もっとていねいな口をきけ。おれは納税者だ」  始自身にその気はないのだが、相手を怒らせるために、しかもきわめて陰惨な怒気を誘発するために、わざわざ言っているようなものである。自称警察官は、周囲で立ちどまりかけた人たちに視線をむけた。 「ああ、皆さん、お騒ぎになる必要はありません」  黒革の手帳を見せる。表情も声も、にせの柔和《にゅうわ》さにつつまれて、いかにも皆様の警察という態《てい》である。 「このとおり、警察の者です。いま左翼過激派のシンパを、検挙したところです。危険ですから近づかないように」  おれは猛獣か、と思っている始の脇腹に、かたい角ばったものが押しつけられた。 「社会の敵、市民の敵を逮捕するのに、ご協力いただいて感謝します」  もうひとりの男が、始の手首に手錠の音をたてた。始の耳もとに顔をよせて、脅迫のささやきを発する。 「人前で、異常な力を見せていいのか? おとなしくパトカーに乗ったほうが、りこうだぞ」  始は一瞬、危険な目つきをしたが、あいかわらずだまって、車内に身体をうつした。車が動きだしたとき、はじめて声をだす。 「逮捕状を見せてもらいたいな。あるとすればだが」 「その必要はない」 「へえ、どうして」 「上からの命令だ」 「上とは誰だ?」 「被疑者に説明する必要はない。きさまらには法がどうのこうのという資格はないんだ。犯罪者や非国民にはな」 「非《ヒ》ってのは、どこにある国なんだ?」  始の廟弄《ちょうろう》が。公安刑事らしい男たちの怒気をよみがえらせたらしい。右側の座席にすわった男が、兇暴な眼光をたたえた。 「きさまらみたいに反抗的なやつには、しつけをしてやる必要があるな。でないと、将来、ろくなものにならない」  左肩をはさまれて車の後部座席にすわっている始は、よけようがなかった。強烈なひじ打ちが腹にたたきこまれた。一瞬、息がつまり、不快感がひろがった。常人なら、胃液をはいて悶絶していたにちがいない。 「すこしはこたえたか、これも愛の鞭だ。警察は、国民がまともに育つよう指導してやる責任があるからな」 「ああ、こたえたよ」  返答は短く、動作はさりげなかった。かるくひざをあげ、公安刑事の靴の上に、自分の靴をおろしただけだ。そして、そのさりげない動作で、公安刑事の足の甲の骨は割りくだかれていた。  絶叫が車内の空間を満たした。  経験したことのない激痛におそわれて、刑事は身体をおりまげた。  始が車内を制圧するのに、五秒は要さなかった。覆面パトカーは、人気のない工場の裏手でとまり、そこで三人の男は。使い古された雑巾のようになって、車内でのびてしまった。彼らは、抵抗できない相手に苦痛を与えることは好んだが、その逆は好まなかった。そして、自分たちが警察官ではなく、某警備会社の社員であることを告白させられてしまった。 「だとすると、きさまらこそ、身分|詐称《さしょう》ということになるな」  始はもともと、警祭が中立だなどと信じてはいない。警察が中立であるなら、なぜ、右翼団体にかぎって、スピーカーで怒号するのを放置しておくのか。なぜ警察官僚出身の国会議員が全員、与党に所属しているのか——だが、これほど公然と拉致《らち》するからには、あとのこともあるから、ほんものの刑事は使わないのではないか。そう始は考えたのだ。そして、そのとおりだった。 「役たたずめ!」  高林は、かつての古田重平と同じような罵声を奈良原に向け、警備会社の社長は、卑屈げに首をすくめた。手には、無線器のマイクがある。 「……それでも、とにかく、このビルにはやってきます。そうなれば、奴を煮るも焼くも副長官のお気にめすままです。どうぞ、ご存分に」  陰湿な怒気の目つきを、奈良原に投げかけただけで、高林は沈黙している。  権力という絶対の武器が、有効に機能していない現在の状況に対して、毒のこもった怒りがあった。預金封鎖と不当逮捕というふたつのやりかたが、これまでどれほど効果的に、高林が属するグループの敵を葬りさってきたか、かぞえきれないほどである。それが、いまのざまはどうだ。  高林は、「鎌倉の御前」を頂点とする権力のピラミッド構造を知り、それに参加し、その絶対性を信じている。その構造を無視したり敵視したりする者は、それだけで神にさからう邪宗徒も同様であった。にせの公安刑事に対する竜堂始の態度を、盗聴マイクで知るかぎり、たとえ特殊なカがなくとも、放置してはおけない危険人物に思われた。  とあるビルの地下駐車場で、始は車からおりた。  にせの覆面パトカーの車内では、三人のにせ刑事が、仲よく気絶している。彼らの上司が人情家であれば、治療費は会社が払ってくれるだろう。そうならなかったとしても、始の知ったことではない。始は左右を見まわし、ゆっくりした歩調でエレベーター・ホールへむかった。ドアノブが勤かない。力をこめようとしたとたん、ドア自体がいきなり内側へひらいた。  始は、一瞬、身体の均衡を失って、エレベーター・ホールによろけこんだ。  その瞬間、特殊警棒が、うなりを生じて始の後頭部にたたきこまれた。待ち伏せがいたのだ。  常人であれば、すくなくとも脳|挫傷《ざしょう》で数ヵ月の入院を余儀なくされたにちがいない。植物状態におちいった「社会の敵」が幾人もいる。 「手かげんするな」と、社長に命令されていた。彼らはその命令を忠実に実行し、植物人間の誕生を確信した。  いきなり、爆風が生じた。  五人のガードマンは、文宇どおりふきとんだ。胸や腹に何かが接触した、と思ったとたん、視界が上下逆転し、身体が後方へ飛んでいたのだ。  コンクリートの柱や床に、駐車したままの車体に、積みかさねられたドラム缶に、警官まがいの制服をまとった彼らの身体はぶつかり、はなばなしいオーケストラを地下駐車場全体にとどろきわたらせた。地上にいた人々のうち。幾人かは、人工の地震を知覚したかもしれない。  後頭部をかるくなでながら立ちあがった始は、周囲の薄闇が、黒々とした人影で埋めつくされていることを知った。  それは特殊警棒や木刀。さらには催涙ガス銃やジュラルミンの盾で武装した、制服姿の男たちで、忠臣蔵の赤穂浪士ほどの人数がいた。散弾銃やライフルをかまえている者もいたが、眼前で展開された光景に、どぎもをぬかれて、指示をもとめるように後方をかえりみた。 「撃て! 撃ち殺せ!」  高林が、安全な後方からわめいた。 「よろしいので? 副長官」 「かまわん。このていどで死ぬような奴なら、御前がお気に病《や》まれる価値もない」  瞬間的に自己正当化を成功させるのが、高林の特技であるかもしれない。だが、つぎの瞬間には、せっかくの命令を、あわただしく撤回していた。 「御前」のご機嫌をそこねてはならなかった。 「いや、ガスだ、ガスを使え!」  奈良原が合図すると、三人のガードマンが盾に身体を隠しながらすすみで、ガス銃を水平にかまえた。  だが、始の手に、にせ刑事からとりあげた手錠がにぎられたかと思うと、回転しながら宙をとんだ。  缶詰をたたきつぶしたような音。  手錠はジュラルミンの盾を突きやぶり、ガードマンの腹にくいこんだ。胃壁が裂け、ガードマンは短いうめき声をもらして横転する。盾で手錠の勢いが弱められていなければ、胴体そのものをつきやぶられていたであろう。  あらたな驚愕と恐怖のなかを、始は突進した。厚い人垣の奥に身をかくしている高林と奈良原を、正確にめざして駆けよる。ふりかざされる特殊警棒の林を、ジャンプしてかわし、空中での蹴りで人垣をなぎたおした。  怒号、悲鳴、混乱の渦中で、奈良原は、いつのまにか、竜堂始と直面していることに気づいた。狼狽しつつも、威嚇のうなり声をあげ、相手の襟をつかむ。  奈良原は、ふっとんだ。始と接触した瞬間に、右肩の骨と、肋骨を三本くだかれ、激痛から失神へと直行している。だから、自分の巨体が三秒半ほどの間、空中飛行したことも、彼の下じきになった三名の不幸な部下が食用ガエルのようなうめき声をあげて気絶したことも知らない。  音程を完全にくるわせた悲鳴をあげて、なぜか四つんばいで逃げだそうとしたのは、現職の内閣官房副長官だった。権力も、武器も、人数も、たのみにならないとすれば、彼が支配できるものは老病者や幼児だけであった。尻をかるくけとばされて、ヤモリのように床にはりついてしまう。 「後ろで命令するばかりか、いい身分だな」  ねじりあげられた腕が激痛を発し、高林は、聞き苦しいわめき声を発した。嫌悪と侮蔑の目で、始は、とらわれ人を見おろした。 「唐《とう》の則天武后《そくてんぶこう》を知っているか? 血を見れば卒倒するほどデリケートなおばさんだったそうだが、生涯にどれほど多くの人間を拷問にかけさせたり殺させたりしたかわからない。きさまはそれと同じだよ。自分の手で切りきざんだものでないかぎり、自分の手が汚れていないとでも思ってるのか?」  そう思ってはいたが、高林は、自分の信念を口にすることができなかった。彼の価値観は、自分ですることをへらし、他人にさせることをふやす、その一点にあった。権力とは、そのようなものだ。そして、おなじ価値観をもった人間や、社会的肉体的に弱い人間に対して、絶対的な支配力を持っていた。  だから、権力をおそれない人間は、高林にとって、ルールを無視する悪質プレイヤーだった。それが通常の肉体を持った人間であれば、スキャンダルや犯罪を捏造《ねつぞう》して破減させることも、自殺をよそおって殺害することもできる。だが、始ら竜堂家の兄弟たちは、そうではなかった。逆にいえば。竜堂家の兄弟のような力《パワー》を有しないかぎり、権力の悪に拮抗《きっこう》することはできないのかもしれないが、この際その認識は、何らなぐさめにならなかった。 「権力を持った奴が、卑劣なまねをするときは、同じレベルで報復してもいいんだよ」  始の声には、おだやかな悪意がある。 「でなきゃ、こっちはやられっぱなしだからな。古田代議士にも言ったことだが、おれたちはマゾヒストじゃない。一方的に卑劣なことや残忍なことをやられて、自己満足して耐えているような変態趣味はないんだ」  高林は脂汗とあえぎをしぼりだした。 「も、もし私に何かしたら、きさまの叔父一家が、ただではすまんぞ」 「なさけない叔父だが、血縁は血縁だ。もし叔父一家に害を加えたら、そっくり同じことを、きさまら一家にお返ししてやる」  始は、するどい視線を、駐車場の一角に放った。薄闇の一部が切りとられて、ダークスーツ姿の男が歩みよってきた。三〇代半ばの、石のような質感をもった男だ。この男は、恐怖の透明衣をまとってはいない。 「御前のご命令では、竜堂始を殺してはならん、傷つけてもならん、鄭重《ていちよう》に、鎌倉の本邸にお招きせよ、とのおおせだったが……」  男はことばをきり、苦笑とも廟笑ともつかぬ表情をうかべた。 「このざまでは、御前が気になさる必要もなかったようだな」  抗弁しようとして、高林は、腕の激痛に声を失った。それでも、ここで何とか反応しなくては、評価をさげてしまう。 「……だ、だが、御前は私に、竜堂兄弟の処置を一任なさった。いまさら……」  ひややかに、男は高林を見すえた。 「官房副長官、御前がおっしゃるには、竜堂始は、あなたなどの手に負える存在ではないそうだ」 「……!」 「あなたに対する御前の評価は、いずれお伝えすることもあるだろう」  屈辱と嫉妬と怒気が、高林の脳細胞をスパークさせた。でなければ、彼は聞きとがめたにちがいなかった。竜堂始が「手に負えぬ人間」ではなく「手に負えぬ存在[#「存在」に傍点]」と呼ばれた理由をいぶかったであろう。  石像のようにすわりこんだままの高林を、もはや見むきもせず、男は始の前に歩みより、一礼をほどこした。 「御前のご命令で、あなたさまを賓客としておむかえにあがりました。自動車が用意してございます。どうぞ私とご同行いただきたく存じますが」 「いやだと言ったら?」  そう始が言ってみると、男は石のような顔に笑いに似た表情をたたえた。 「この場で私は割腹《かっぷく》します。御前のご命令をはたせなかった以上、真正の日本人として、当然のこと」 「くだらない死にかただな」  むしろ怒りをこめて始はつぶやいたが、相手の、いわば静かな狂気とでも呼ぶ態度に、いささか気おされて、皮肉を言う気になれなかった。嫌悪感も、むろんある。だが、いずれにしても、事態がここまですすむと、山の頂上をめざさないわけにはいかなかった。高林のような、「御前の使用人」と遊んでいても、らちがあかない。 「いかがですか、竜堂家のご長男、私どもの主人の招待を受けていただけますか」 「条件がある」 「どうぞ、ご遠慮なく」 「おれが招待を受けて、きちんと家へ帰るまでの間、弟たちにも叔父たちにも、いっさい手は出さないでもらおう。条件といっても、当然のことだと思うが」 「まことに、おっしゃるとおりです。御前からはすでにそう申しつかっております。では、こころよく招待を受けていただけますな」 「こころよくはないけどね」  ……こうして始たちが去ったあと、ひとりとり残された高林は、コンクリートの床にすわりこんで、ぶつぶつ何かつぶやいていた。       ㈽  鎌倉市東部の山中、天台山や胡桃山に近い黒々とした森の一角に、「鎌倉の御前」こと船津《ふなづ》忠巌《ただよし》の本邸があった。  人里離れたようにすら見える環境だが、横浜横須賀道路の朝比奈インターチェンジから、ひと山をこしただけである。船津老人が東京都心へおもむくのに、あるいは政財界の要人たちが老人のもとへ参勤《さんきん》するのに、何ら不便はなかった。  第一の鉄門が、公道から私道への入口にあり、そこを通過して、森のなかを二〇〇メートルほど曲折しながら進むと、またも青銅の門扉にぶつかる。そこから玉砂利の道を、植こみにそって五〇メートルほど半円形にまがると、はじめて、三階建の、ビクトリア朝風《ちょうふう》の石づくり洋館が姿をあらわす。  始を案内してきた男が深々と一礼した。 「チェス室へお通しするように、と。御前のおおせでございました。こちらへどうぞ」 「私はチェスなんてできませんがね」 「いえ、そこが一階で一番せまい部屋でございまして、対面によろしいと」  あ、そう、と、始は半ば口のなかでつぶやいた。 玄関ホールから、三度ほど、幅の広いカーペット敷の廊下をまがって、始は、チェス室と称される一室に案内された。  たしかに、せまい[#「せまい」に傍点]部屋だった。和室に換算すれば、二〇畳ほどの広さである。室内の色調はワインカラーを碁調にととのえられ、チェステーブルの上には象牙製のチェスセットが置かれていた。壁には、日本国内でしか通用しない某大家の、富士山を描いた油絵がかけられていた。縦長の窓二ヵ所には、二重のカーテンがかけられ、床は樫材をフローリングしたもので。歳月をうつして光っている。  彼を案内してくれた男を、始は見やった。 「で、あなたが執事さん?」 「いえ、私は執事補のひとりにすぎません。二〇名ばかりいるうちの、いちおう次席ということになっております」  それが礼遇を意味することになるのかな、と、始は皮肉っぼく考えたが、口には出さなかった。 「ワインかブランデーをめしあがりますか」 「けっこう」 「はて、毒殺をおそれるような方とも見えませんが……」 「おそれちゃいない。気のあった相手と心をひらいて飲むのでなければ、酒に対して悪いからね」 「では、御前の分だけを運ばせていただきます。お気が変わりましたら、いつでもお命じください」  次席執事補がひきさがり、とりのこされた始が口のなかでゆっくり二八かぞえたとき、扉がひらいて、館の主が姿をあらわした。何番めの執事補かわからないが、三〇代の無表情な男が、うやうやしく扉をあけて老人をとおした。  老人は、始の知識では九〇歳になっているはずだが、一世代ほどは若く見えた。服装は公園の日曜画家を思わせる軽快で洗練されたもので、これも意外なものに感じられた。何となく、ひきがえるが和服を着た姿を想像していたのだが、これは始の偏見というものであろう。  老人は若い客人にさりげなく席をすすめ、自分も腰をおろした。 「竜堂始君、ひさしぶりだ」  老人の笑顔に、始は感応しなかった。辛辣なほどそっけない眼光をむけて、 「どこかでお目にかかりましたか」 「憶えておらんのは、むりもない。一八年も前のことでな、君はまだ小学校にもあがらない子供だった」  ふたりの間にはチェステーブルがおかれていて、それが両者の——すくなくとも始のがわに存在する心理的な障壁を象徴しているようにも見えた。  老人のために、ポートワインとチーズが運ばれてきて、それにあらたな会話がつづいた。 「古田や高林が何かとご迷惑をおかけしたようじゃ。かわってわしがおわびする」 「迷惑をかけられたことは事実ですが、どうしてあなたが彼らのかわりに謝罪なさるのですか」 「……うむ?」 「あなたが彼らによけいなことを命令なさったと解釈してよろしいんですね。だとしたら、あやまったぐらいですむことじゃないでしょう」 「手きびしいな。そのとおりではあるが、わしは君らに害を加えるよう命じたおぼえはない。許可を与えはしたが、それも、彼らが君らに何をなしえもせんことが、わかりきっておったからじゃ」  始の両眼に、軽蔑の光が宿った。 「だったら、あやまる必要はないでしょう。あなたは、貴任を回避なさる一方で、古田や高林に対する支配力を誇示していらっしゃる。古田や高林こそ、いい面《つら》の皮ですね」  老人は無言で笑った。おそらく、複数の感情をかくすための笑いであったろう。どのみち、始の態度が好印象をあたえたはずもなかった。これは、チェスなどよりはるかに品性の低い、それだけに深刻な戦いだった。 「だいたい、ぼくたちのように平凡な庶民に、あなたのような雲上人が、何のご用があるのですか」 「平凡か。最近は、日本語も乱れておるでな。だが、素手で自動車のドアをひきちぎったり、撞球台を片手で持ちあげたりする者を、平凡と呼んですませるほどには、まだ乱れておらんようだ」  老人ほ、ふたたび笑った。 「どうかな、始君、そう思わんか」 「日本語が乱れていることは、たしかですね。ことに中高年の役人がひどい。E電なんて、正気の産物とは思えません。文部省は、古典教育をおろそかにする一方で、日本の伝統がどうとか、たわごとをほざいているし、なげかわしいかぎりです」 「……どうして、君もなかなか話をそらすのがうまいな」  老人は、先刻とはややことなる種類の笑いをつくり、ワイングラスをロもとに運んだ。ワインにもチーズにも、さぞごたいそうな価値や来歴があるのだろうが、始の知ったことではない。先刻、次席執事補と称する男に言ったことは、嘘ではなかった。この老人と、心を開いて酒を酌みかわすことなど、できるとも思えなかった。  老人がワイングラスをテーブルにもどした。 「始君、なかなか君はできた男だ。高林や古田など問題にならん。奴らはわしに与えられた役割をどうにか呆たせるだけの。二流三流の芸人にすぎんが、君には独創性がある」  ほめられても、始としてはべつにうれしくはなかったのは、むろんのことである。 「また、君の精神には、どこか、いちじるしく不逞《ふてい》なところがある。祖父の血をひいているらしい。君の祖父は、戦前、治安維持法違反で獄中にあった左翼の闘士だったからな」 「左翼じゃない、自由主義者です」 「わしはそう思わんが、左翼の定義について論争するつもりはない。彼が政治思想的にどの種属に分類されているか、などということより、何をやったか、ということが、わしらにとっては重要だろう」 「わしら?」 「君やわし、それに君の兄弟たちにとってだ」  始は口を開きかけて閉ざし、本来、彼の人生と無縁な場所に棲息しているはずの、奇怪な老人を見つめた。この老人の前に出れば。政財界の巨頭やら要人やらも、床にはいつくばってかしこまるという。有権者や消費者を傲然とみくだす有力者たちが。始がいま、形としても老人と対等の立場にたって会話しているということは、この老人の寛容さをしめしているのだろうか。  それは不愉快な認識、あるいは錯覚であった。  老人が半ば両眼をとざしている。 「……わしが君ら兄弟に関心を持つにいたったについては、それに先だつ長い話があるのでな。それを君に語った上で、わしが君らに何を望んでいるか、了解してもらいたいのだが、どうだろうか」  始はなお無言である。そして、この場合、無言は、老人の提案を当面は受けいれることをしめしていた。 [#改ページ] 第七章 竜泉郷       ㈵  竜堂四兄弟の祖父|司《つかさ》は、日本と帝政ロシアとの戦争が終結して、日本の自尊心と領土欲が病的に肥大化しつつあった時代、中国大陸の天津《てんしん》に生まれた。両親とも日本人で、父親は日本人学校の教師だった。  司は、旧制旅順高等学校から、大学は北京の燕京大学へ進んだ。ここはアメリカのハーバード大学の姉妹校で、当然ながら、その時代としてはリベラルな校風を持っていた。のちに司が共和学院を設立したのは、この当時の経験が影響したのだろう。中国人を敗者として見下す、当時の日本人の悪癖とも、司は無縁だった。  ひとつには、竜堂家の先祖が、もともと中国大陸の人だったからである。一六三六年、日本では徳川三代将軍家光の時代に大陸から渡航したと、家伝の系図書に銘記してある。それを隠しもしなかったため、司は日本人社会からかえって疎外されることもあったらしい。  燕京大学の図書館につとめていた司は、日中戦争の一時期、なぜか職場を休み、黄河上流域への旅に出た。自然と人為、双方の危険をかえりみず、日中両軍からスパイと誤解されながら、洛陽《らくよう》から長安へ、さらに西へと歩きつづけた。 「そして、一年がかりで彼は着いたのだ。竜泉郷と称される小さな村に……」  船津《ふなづ》忠巌《ただよし》と名乗る老人はそう語った。  その村は、黄河上流域、甘粛・青海の両省の境界付近にあって、盆地を万年雪の山にかこまれ、黄河の支流のまた支流が断崖を割って外界へ流れ出ていた。この当時、中国大陸の奥地では、中国と日本が戦争をしていることなど知らない人々がけっこう多かったが、竜泉郷の人々は、司がおどろくほど外界の事情にくわしく、敵国人である司をあたたかく迎えてくれた。司はそこに一一七日の間だけ、とどまることを許された。 「もともと、君たちのご先祖は、その村の出身であり、わが友竜堂司は、三〇〇〇年ぶりに本家帰りをはたしたというわけだ」  わが友。ということばが、始には不愉快だったが、それは口に出さなかった。尋《き》いたのは。べつのことだった。 「で、あなたがそういう事情をご存じなのは、なぜですか。むりやり祖父から聞きだしたのですか」  老人は始を見やった。彼自身の立場に対する説明を忘れていたようであった。あるいは、忘却をよそおっていたのか。 「……彼はひとりではなかった。同行者がいたのだよ」 「つまり、あなたですか」 「そのとおり」  老人はチーズの一片をつまんだ。 「頭のいい人間と話すのは楽しいことだ。まして君は、私と対等に話をしておる。正直、つらにくさがないでもないが、こびられるよりはるかによい」 「ひとつうかがいますが……」 「うむ?」 「その村には美しい若い娘がいて、あなたか祖父のどちらかと恋におちた、ということもあったのではありませんか。秘境冒険小説のパターンで」  瀟洒《しょうしゃ》でしかも怪異な老人は、このとき、はじめて心から苦笑したように見えた。 「凡庸な小説家の空想は、事実を出ぬものでな。まあ、似たようなことはあった。だが、それが全体の事実を左右するほどのことはなかった。単なる挿話にすぎんし、深刻でもない。竜堂司も、わしも、住みつくでもなく帰ってきたわけだしな」  老人は一瞬、目を細めたようだったが、すぐに、つかみどころのない表情にもどった。 「にしても、君たちは祖父から竜泉郷の話を聞いたことがないのかね」 「一度も。たぶん、話す価値なり意義なりがないと思っていたんでしょう」 「単に、機会がなかっただけかもしれんな。だが、まあそれはおいて、その村には意外な秘宝があった」  老人の目が光を脈動させたようである。 「ただし、秘宝というのは、黄金でもなければ宝石でもなかった」 「でしょうね」  始は大きくうなずいた。 「祖父はそんなものに興味はなかった。祖父が熱狂したとすれば、それは、公式には失われたことになっている古文書か何かでしょう」  ここまで口にするのはサービス過剰だな、と、始は思った。老人のほうがすべてをさらけだしているとは、とても思えない。こちらが正直でありすぎる必要はないだろう。 「君の想像は。半分はあたっている。まあ、口伝《くでん》もふくめて、それは古代の知識だった。そしてそれはいうなれば、竜堂司が自分の根源をさぐる旅でもあった……ところで」  老人の青先が自分の上唇に動いた。 「知っておるかな、竜堂家のもともとの姓は敖《ごう》という」 「敖……?」 「敖とは竜王の姓だ。これはべつに秘密でもなく、さまざまな中国の伝説に共通して記されていることでな」 「西遊記にものってますね」  やや上の空でそう答えながら、始は、老人の話に対するアンビバレンツな感情を自覚していた。一方ではたしかに惹《ひ》きこまれ、一方では強烈な反発をしめしている。 「その村で竜堂司は、自分が敖家の一一五代めであるということを、古老に教えられたのだ。すると、君たちは彼の孫である以上、敖家の一一七代めということになる」 「数字はあっていますね」 「敖家の初代は、人でなく、竜であった。それも、伝説の周の武王を助けて殷《いん》の紂《ちゅう》王を討ったという四大竜王であったという」  笑いだしてもよかったが、始はそうせず、熱弁をふるう老人を黙然とながめやった。 「竜帝に四子あり、これを四海に封じて竜王と為《な》す。一に東海青竜王、名を広《こう》。二に南海紅竜王、名を紹《しょう》。三に西海白竜王、名を閏《じゅん》。四に北海黒竜王。名を炎《えん》。四竜王は、もとこれ竜身なるも、人身に変じ、中原《ちゅうげん》と崑崙《こんろん》との間に封土をえて、祭祀をかさねたるなり。竜種の貴なる者は、風を起こし雨を呼び、雲に騎《の》りて万里を赴《ゆ》くこと半日の裡《うち》にあり。其《そ》れ推《お》しおもんみるに、黄河の上流をもって竜王封神の地と見るべきか……」  一気に暗誦して、老人は呼吸をととのえた。 「南斉《なんせい》の邵《しょう》継善《けいぜん》が著した『補天石奇説余話《ほてんせききせつよわ》』にある文章だ」 「たしか、その本は、祖父の書棚にありましたね。清代の模写ですが……」  偽書説もあるその古文書は。伝承によれば、秦の始皇帝がおこなった焚書《ふんしょ》によって失われた古代の竹簡《ちくかん》の内容を転写し、集大成したものだという。だが、偽書でないとすれば、そもそも邵継善は、どうやってその所在を発見したのであろう。 「いや、秦の始皇帝は多くの竹簡を焼くよりむしろ宮中の奥深く秘めて人の世に出すまいとしたのだ。無数の竹簡が朱われたのは、劉邦《りゅうほう》の略奪と項羽《こうう》の破壊による。そして、じつのところ、何百万巻という古文書がどこへ消えたか、正確なことは知られなかった。ところが、じつはその竜泉郷の岩壁をくりぬいて、人類の巨大な知的遺産が眠りつづけておったのだ……」  漢の時代、儒教が国教化されると、他の思想に対する弾圧が開始された。墨家《ぼくか》をはじめ、多くの思想が消滅させられた。これは始皇帝の焚書などと比較にならない暴挙だったが、二〇世紀の中国革命にいたるまで、儒教が中国文明を支配しつづけたため、問題にされることがなかった。これは、西方世界において、キリスト教が他宗派を弾圧し絶滅させた事情と、やや似ている。 「竜堂司は、許された一一七日間、外界と隔絶したその村にとどまり、古文書を読みつづけ、古老の話を聞きつづけた。むろん、巨象の体毛を一本むしったていどのことではあるがな。それでも、無にまさることはるかだった」 「さっきから、一一七という、中途半端な数字がよく出てきますね」  よく気づいた、と、老人はほめた。 「一一七という数は、九の自乗数である八一と六の自乗数である三六とを合計したものでな。いわば中国文明における数秘術の極致じゃ。そして、一一七代、ほぼ三OOO年の後に竜王は転生する」 「…………」 「転生するには、するだけの理由がある。そう古老は言ったが、くわしいことは、わしには語らず、竜堂司も教えてはくれなんだ」  老人の表情に、このとき、嫉妬めいた光彩が短くゆれた。すくなくとも、始にはそう見えた。「鎌倉の御前」こと船津忠巌と、始たちの祖父竜堂司との間に、どのようなことがあったのだろうか。 「君たちは、ご先祖のことを、どのていど聞かされているのかね」 「たいして。でも、わが家のご先祖は、とにかく海賊だったことはまちがいないみたいですがね」  明が海禁策を実行した後、「倭寇《わこう》」とよばれる中国と日本の武装海上貿易商たちは、両国をまたにかけて活動した。そして、竜堂家のご先祖は、明から清《しん》へ王朝が交替すると、多少の財産や書物をかかえて日本へ亡命してきた。最初は長崎にいたが、博多から京へうつって、漢学の塾をやったり漢方医などやっていたらしい。「うちの先祖は海賊で、いろいろ悪いことをやって、水戸黄門にやっつけられました」という、いいかげんな作文を、始は小学生時代に書いたことがある。 「それはそれとして、竜王転生の件だ。君らはまさしく竜泉郷の敖家の一一七代めであり、竜王四兄弟の転生というべき存在なのだ」 「信じていらっしゃるんですか、そんなたよりない伝承を」 「信じるとも。君らの実在を信じているようにな。始君、遠隔精神感応というやつは知っておるかね」 「遠隔精神感応……」 「そう、それじゃ。竜堂司がいうには、故郷へ帰る渡り鳥のようなもの、ということだったが……」  同族の声が竜堂司を呼んだというわけなのだろうか。一一五代めにいたっての、故郷への回帰。それを竜堂司が信じ、船津忠巌に語り、それらが現在、竜堂兄弟が巻きこまれるにいたった騒動の根となったのだろうか。だとしても、祖父の声が。船津老人によってまったく歪曲《わいきょく》されることなく、いま始に伝えられていると思いこむのも、すこし甘すぎるようである。 「この遠隔精神感応というやつは、ただ距離をこえ、空間をこえてとどくだけではない。時の壁をもこえて相反応するのだ」 「というと?」 「夢じゃよ」  その一語が、始を内心、ごくわずかに動揺させた。 「遺伝的記憶というやつじゃよ。DNAに組みこまれて、世代をこえた記憶だ」  始は眉をしかめただけで、声に出しては反応しなかった。老人の指摘が核心にむかっているように見えて、うっかりした反応が、よからぬ再反応をひきおこすのではないか、と用心せざるをえなかったのだ。 「君の弟さんは、ときおり、奇妙な夢、おなじ内容の夢を、何度もくりかえして見ている。いや、それどころか、君自身がしばしばそういう夢を見て、口外しないというだけではないかね?」  そのとおりだとしても答える義務はないな、と始は思い、やや不自然な沈黙を守った。       ㈼  老人は。また話題を転じた。 「……竜は五行または五徳といわれる自然界の力を利用し制御することができる。すなわち、木・火・土・金・水だ。たしかこの順序でよかったかな」 「ええ、正確ですよ。だからといって、意味があるとも思えませんがね」 「本気で言ってるとしたら、君は認識が浅いな」  老人は、今度は笑わずに言い、上半身をのりだすような姿勢で、皿の上のチーズをつまみとった。 「君もどうかね、こいつはアルザス産で、ちと匂いが強いが、口のなかでよく溶ける」 「けっこうです」  始の返答は、そっけないというよりは機械的だった。彼としても、思考を整理してまとめる必要があったのだ。生前の祖父が断片的に語ったことのいくつかを。船津老人の談話は補強した。だが、巨大なジグソー・パズルが完成されるには、まだほど遠い。 「ところで始君、古来、竜が絵図に描かれた姿を見ると、前肢にかならず白くかがやく珠《たま》を持っているな」 「ああ、竜が前肢に白い珠をだいている。如意《にょい》珠《じゅ》というやつです。如意|宝珠《ほうじゅ》ともいいます。竜珠という呼びかたは知りませんでしたが、要するに同じものでしょう」  老人はワイングラスを指先ではじいた。 「で、その如意宝珠がどのような力を持っているか、知っているかね」 「さあて、知りませんね」 「あれは、この地上に存在するすべての水を、自在に制御することができるのだ。ということは、気候と気象をあやつることができるのじゃよ」  それを軍事に応用すればどうなるだろうか、と老人は声に熱をこめた。 「気象兵器になる、というわけですか」  始はつぶやいた。何とまあ、なさけない、いやしむべき発想であろうか。同じ空想でも、砂漢を緑化するというほうが、すくなくとも上品であり建設的でもあるだろうに、軍事に応用すれば、とは。 「君には異論がありそうだが、あの時代だ。いずれ大陸の権益をめぐって米英とあらそうことは目に見えていた。君の祖父がそれを考えなかったことこそ異常だ」  その珠を、日本軍部、なかんずく関東軍の首脳部にゆだねるよう、船津忠巌は竜堂司を説得した。だが、竜堂司はそれを拒否した。彼は軍隊がきらいで、あらゆる軍隊のなかで関東軍がもっともきらいだった。そして、いつのまにか、如意宝珠をどこかに隠してしまったのである。 「なるほど、それでわかったような気がしますよ」  船津老人がいったん口をとざした、そのあとを始が受けた。 「祖父が何者かの密告で特高警察にとらえられ、拷問を受けて片目と片足が不自由になった件です。あなたの手が動いていたと考えていいんでしょうね」 「いや、それはちがう。考えてもみたまえ、特高が竜珠の存在を知ったら、君の組父は獄中でかならず殺されていた。とにかくも助かったのは、君の祖父が、通常の思想犯として遇されていたからだ」  そこで老人は、「邪悪」と表現されるにたりる表情をつくった。 「わしがたしかにやったのは、こういうことだ。君の祖父、竜堂司が獄中にあったとき、わしは彼に毛布を差し入れた。ただし、毛布にチフス菌を塗りつけてな」 「……!」 「当時の特高警察や憲兵隊は、思想犯や政治犯に対して、よくそういう手段をとったものだ。べつにわしの独創というわけではない。しかし、竜堂司は外見よりはるかに強靱な体力の持主だった。それとも、竜種の血のゆえかな。発病はしたが、生命はとりとめて敗戦を迎えたよ」 「あなたという人は……」  始はうめいた。胸郭《きょうかく》のなかで、何かがざわめいた。 「そう憎まんでくれ、チフスになったおかげで、竜堂司は病院に送られ、獄死をまぬがれたのだからな」  それは行為の結果であって目的ではなかったはずだが、老人は平然として言いすてた。たとえば叔父の靖一郎あたりに比べて、神経の太さと強さが段ちがいであることは、始も否定しようがない。だからといって、むろん賞賛する気にはなれず、始は不機嫌に老人の脂っぽい、よく動く唇を見つめていた。 「そんなことより、かさねていうが、四竜王転生の件だ。君たち四兄弟に、ぴったりあてはまるではないか。上から順に、東海青竜王、南海紅竜王、西海白竜王、北海黒竜王。君はまさに東海青竜王|敖広《ごうこう》の転生した身だ」 「おことばですが、それなら仏教でいう四天王だって、人数からいったらあてはまるでしょう」 「人数だけなら、な。だが、仏教説話は、この際、関係ない。わしがこう言うておるのは、竜泉郷の古老や、君の祖父から聞いた話にもとづいている。もし、わしのことばがたわごとだとするなら、それは、君の祖父がわしにたわごとを言ったということだ」  自信たっぷりな老人の態度には、始の反論を封じる何らかの力があった。それでも、始は、そっけなく反応した。やや意識しながら。 「ですが、祖父から直接、そのたわごととやらを聞かされたわけではありませんからね」 「信用できないというのかね?」 「あなたがまるきり嘘を言っているとは思いません。ですが、事実に対するあなたの解釈を、全面的に受けいれなきゃならない義理はおれにはないということですよ」  老人はまた笑った。何度めの笑いであるか、始は、かぞえる気にもなれない。老人の顔は、精密につくられた仮面で、それをひきはがすと、粘液質の原生細胞がうごめいているような気がした。ワインの酔いでほてった老人の毛穴がひらいて、そこから何か異様なものがにじみだしているようにも見えた。 「それならそれでいいが、さあ、どうか。如意宝珠のありかを教えてくれないかね、始君」 「知りませんよ、そんなものは」  これは事実である。「竜珠」などというものの存在を知ったのほ、いま。老人の口からである。いや、伝説の竜が「如意珠」とか「如意宝珠」とかいうものをいだいていることは、むろん知っていた。それが実在し、しかも自分たちの血族にかかわるものであるということは、いま知ったのだ。  しかも、それが、船津忠巌という怪異な老人の口からであり、始はこの老人を。まったく信用していない。たとえ知っていたとしても、教える義務も責任も、始にはなかった。  わざとらしく、老人は吐息した。 「わしは先刻から言っているが、君を高く評価しているのだ。わしを失望させないでくれんか。わしの部下や教え子どもは、わしが無謬《むびゅう》であると信じておるし、わしも、君に対する高い評価を、過去形にしたくないのでな」  やたらと一人称を多用するあたりに、老人の過剰な自意識があらわれているのかもしれない。そう思ったが、性格分析の成果を口に出したりはせず、うさんくさげな目つきのまま、始は沈黙していた。 「如意宝珠だけでなく、わしは君たち四人の持つ力を欲している。君たち兄弟を賓客《ひんきゃく》として遇するから、わしに身柄をあずけてくれんかね。けっして悪いようにはせんが」 「おことわりします」  始の返答は明快だった。かけひきをする気がないではなかったが、その意思を押しのけて。感情が返答してしまった。わざわざ鎌倉の奥まで来たあげくが、できの悪い伝奇小説のような話をきかされ、しかもそれに反論する根拠をもてないとは。 「ほう……考慮の余地がないと言いたげじゃね。わしは正義と祖国愛の観点から、君にお願いしているっもりなのだが」 「そんなものに、おれたち兄弟は何の関心も興味もありませんね」  始はつきはなしたが、老人はこのとき、半ば以上、自分自身の思案にひたりこんだようで、相手の反応を無視した。枯れるにほほど遠い熱っぽさで、老人はひとりごとをつぶやいている。 「竜珠。竜の如意珠。気象と気候を意のままに制御する兵器だ。これをわが国が保有すれば、わが国の地位は比類ないものに強化されるだろう」 「それはそうでしょうね」  どこまでも、竜堂家の長男は冷淡だった。  気象、気候、そして水を自在に制御することが可能であれば、洪水や日照りの災害をおこし、かつ農業、牧畜、水産、林業等の生産活動を左右することが可能となり、ひいては人間が生存するための食糧を支配することができるようになるだろう。で——それがどんな意義を持つのか。日本が、さらには船津老人が、世界を支配することになって、それが人類の幸福や向上につながるのか。  とても、そうは思えなかった。 「たとえそれが正しいことであっても、他人から命令されたり、強制されたり、あやつられたりするのは、おれはまっぴらですね」 「命令しているつもりはない。それは君のかんぐりすぎというものだ」 「そもそも、日本が気象兵器とやらを独占して、世界を支配することにどんな意義があるんです?」 「支配しようというのではない。自国の安全と誇りを、揺るぎなく守ろうというのだ。日本人にとっては当然のことだ」 「旧日本陸軍もそう言っていたでしょうね、きっと」  これは始自身の独創的な意見ではなく、死んだ祖父の売けうりである。船津老人の顔に、どぎついほど負《マイナス》の感情が浮かんだのは、あるいは数十年前に竜堂司に論破でもされた経験を思いおこしたのであろうか。 「わし同様、君も日本に生まれ育ったはずだ。厳しさを加える世界情勢のなかで、日本が滅びないよう最大限の努力をするのは当然だと思うのだが」 「人類が滅びるのは一大事だが、日本が滅びるのは世界にとってたいした損失でもないでしょうよ」  辛辣きわまる始の口調だった。 「ローマも滅びた、カルタゴも滅びた、漢に唐にインカに……日本だって。いつか滅びるでしょうよ。歴史に例外なんてありません」 「それを避けられるのだ。竜珠、如意宝珠さえあればな」  老人の顔に、異様な生気が浮きあがるのを見やりながら、始は、血管に嫌悪感がみちはじめるのを自覚した。つまるところ、この老人の若さをささえているのは、病的で反動的で腐臭を放ちはじめて何十年にもなる国家主義の残滓《ざんし》であるのだろうか。  いきなり、老人が話題を転じた。 「ところで、君は、四人姉妹《フォー・シスターズ》というのを知っているかね」 「若草物語のことですか」 「そんなのんきなものではない。アメリカを、ひいては自由主義陣営のすべてを支配する四大財閥のことだ」 「ははあ……」 「そう露骨に、ばかばかしそうな表情をせんでもいい。政治や経済の中枢に、崇高《すうこう》なものなど何もあリはせん。醜悪で滑稽《こっけい》だ……で、わしとしては、その美しからざる四人姉妹に対抗し、日本の真の独立を守るために、君たち兄弟のパワーを、ぜひ必要とするのだ」 「制御できないパワーなど、何の益にもなりませんよ。核兵器を大量にかかえこむより、始末が悪いかもしれない」 「制御できるとわしは信じている」 「自信たっぷりですね」 「もっともよいのは、君ら兄弟が、生まれ育った国に対して、愛情と忠誠心をしめしてくれることだ。自主的、積極的にな」  老人は、結局、べつの方向から同じゴールをめざしているだけのようであった。 「愛情や忠誠心を、弱い立場の人間に強制するのは、この世で一番、醜悪な行為ですよ」 「君は弱い立場にいるのかね?」 「すくなくとも、権力の近くには棲《す》んでいません。おれたちが、あなたの手下につけねらわれて生きていられるのは、権力の庇護《ひご》とは無縁のことですよ」  老人が失笑するか、と思ったが、始の予想は外《はず》れた。老人はワインにのばしかけた手をなぜかひっこめて、すわりなおした。 「権力とはな、つまるところ、無実の人間を犯罪者として処刑台へ送りこむ力だ」  老人の声は、何かをはばかるように低い。  彼は旧満州常国で特務機関のひとつを支配し、アヘンの製造販売や、不当逮捕の保釈金、人身売買、収賄、公金横領、軍需物資の横流し等で巨億の富をきずいた。戦後、その金力によって。また旧満州以来の人脈によって、今日までつづく権力を所有したのだ、と一部ではささやかれている。 「だが、それも、現在の世界と社会が、今後も永く維持されての話だ。満州帝国の誕生から滅亡まで、たかが一五年にみたぬ。ところが。大半の日本人は。それが半永久的につづくと思っておったのさ」 「あなたもでしょう?」 「わしはつづける[#「つづける」に傍点]つもりだったさ」 「それが無に帰したのは、中国人にとっても日本人にとっても幸福なことでしたね」  始としても、老人につきあうことに、疲労を感じはじめていた。口調からは、表面上の礼儀すら失われかけはじめた。  このとき、老人の傲慢さに、奇怪な翳《かげ》りが生じた。体内で水位をましていた悪意が、急速に危険値に達して、老人の表情と言動とを支配しはじめたように見えた。  老人はわざとらしいせきばらいの音をたて、口調をあらためた。 「始君、君がどう思っておるかは知らぬがな、わしはずいぶんと君に譲歩しとるつもりだよ」 「そうでしょうね」 「わしはそう気が短いほうではない。君らの祖父が死ぬまで待った。死後も、今日まで待った。もうすこし待って、準備をととのえたかったというのが本心だ。だが、わしも九〇になって、いささか後事が気になってな」 「お察しします。ろくな部下がいないようですからね」  始のいやみを、船津老人は無視した。 「さっき言った四人姉妹《フォー・シスターズ》のことだが……」 「忘れかけていました」 「その四人姉妹がなぜ日本に手を出してこないと思うのだ?」 「梅雨がきらいなんでしょうよ」 「ほ! そいつは気づかなんだ」  老人は興がったように見えたが、どこまで本気であるのか、始にはわからなかった。 「その梅雨ぎらいの四人姉妹が、日本に支配の手をのばしてこないのは、あなたをはばかっていると言いたいわけですか?」  老人は口をとざし、不快感と疑惑をこめた目で、六七も年下の若者を下目づかいに見やった。始はといえば、長々しい不毛な話しあいにいやけがさし、気分は半ば椅子からたちあがっている。 「あなたは。いかにも自分が偉大であるようなことを言うけれど、結局のところ、その四人姉妹とやらの下僕として、日本国代官をつとめているだけじゃないのですか」  始のことばは、かならずしも根拠があってのものではなかった。だが、それが核心をついたことは、まちがいないようであった。 「日本が、ことに外交や防衛で独立しているなんて、誰も思いはしないさ。四人姉妹は、あなたが消えれば、誰か代理人をたてるだけのことですよ」 「かもしれぬ」  老人は唇をゆがめた。 「だが、その代理人は、わしよりはるかに弱腰だろう。わしがいなくなった後、日本が四人姉妹にいいようにされると思うと、とても死にきれん。せっかくわしが再建したこの国が……」 「そりゃ日本は世界に冠たる先進民主国家ですからね。身よりのない老人の年金からは税金をとりたてて、一度のパーティーで何十億円も集める政治家の政治資金には一円も課税しない、公平な社会を実現してる。あなたが半世紀にわたって努力なさった結果だ」  老人は動じなかった。 「若さゆえに、そうも未熟な皮肉を言いたくもなるのだろうが、これほど富みかつ栄えた国が歴史上にまれであることは疑えんことだ」  始はゆっくりと首をふってみせた。 「もういいでしょう。ぼくも夜型人間ですが、そろそろ眠気をもよおしました。失礼したいので、外にいる連中に、ドアをあけるよう言ってください」  チェス室のドアが左右に開かれると、金属的なかがやきが始の視界に映った。やはりこうなるか、と、始は皮肉っぼく両眼を光らせて椅子から立ちあがった。それにつれて、拳銃や日本刀の角度も上方へ動いた。       ㈽ 「力が発現するきっかけはな、例外なく怒り、憎悪、激情からなのだ」  椅子にすわったまま、老人の声は低まり、それに反比例して、邪悪な精気が圧力を高めて、室内に流れだすのを、始は知覚した。人間の体温が空気をあたためるように、精神的なエネルギーもまた空気に影響をあたえるのだ。  この老人は、ほんとうに一〇〇歳に近いのか。内心で。始は舌を巻いた。妄執だろうが野心だろうが欲望だろうが、この老人の肉体と精神を賦活《ふかつ》させているエネルギーの強烈さは、否定しようがなかった。 「わしとしては、君に充分な礼をつくしたつもりだが、君は礼をもってそれに応《こた》えてくれなかった。戦後、君の祖父以来はじめて、対等の礼をしめしてやったというのにな」  おありがたいことだ、と思いつつ、声にだしての始の反応はみじかかった。 「約束はどうした!? 危害を加えないということじゃなかったのか」 「約束を破ったおぼえはないぞ、始君。わしは君の弟たちや叔父一家には手を出さぬというたが、君自身に手を出さぬというたおぼえはないでな」 「……それで気のきいたことを言ったつもりか、くたばりそこないの半亡霊が」  相手をののしるためというより、自分自身を鼓舞《こぶ》するために、始は下品な罵声をあびせ、同時に行動をおこした。  跳躍する。  脱出のため、老人を人質にしようとしたのだ。だが、老人にむかって伸ばした手は、はげしいショックに揺れて、目的を達しえなかった。扉ロから発射された三五口径の銃弾が、彼の右手に命中したのだ。  銃声がひびきわたると同時に、老人は、ほんとうの年齢より五〇も若い者の動作で、椅子からとびはなれていた。扉口を埋めつくしていたガードマンのうち、ふたりが、すばやくとびだし、老主人を自分たちのつくる人垣にひきずりこんだ。 「撃て!」  命令は、銃声のとどろきにかき消された。チェス室の空間は、無数の火線によって縦横に切りきざまれた。始の身体は、着弾のショックと煙につつまれ、床に転倒した。  始の身体に集中した弾丸は、四〇発をこえた。人間どころか、熊でも射殺するにたりる。始の肉体は穴だらけになり、服は裂けちぎれ、血の海に沈みこんだ——そのはずであった。  チェス・テーブルもソファーも、心血をそそいで製作した職人が傷心の涙をこぼすであろうほど、むざんに破壊されていた。チェス室全体に、火薬の匂いがただようなか、三五口径の拳銃をかまえたガードマンのひとりが、始に近づき、靴先でその身体をひっくりかえそうとした。  その瞬間、人間の形をした火山が、いきなり爆発したのだ。  一撃で上下のあごを撃砕されたガードマンは、血と歯のかけらを宙にまきちらしながら、放物線をえがいて宙を飛んだ。  驚愕と恐怖の環のなかで、ゆっくりと、射殺されたはずの青年は立ちあがっている。服は銃弾によってずたずたに引き裂かれ、焼けこげた匂いをはなっていたが、出血に濡れてはいなかった。四〇発からの銃弾は、始の皮肩を傷つけることができなかったのだ。 「ふむ、やはりな、竜の鱗《うろこ》は刃も銃弾もとおさぬか」  始の上半身に、真珠色のかがやきが広がるのを、船津老人は満足そうに見やった。始は老人をにらみながら、血のまじった唾をはいた。転倒したはずみで、唇の端を噛みやぶってしまったのだ。 「服はいずれ弁償してもらうとして、さしあたり、手下どもにそこを退《ど》くよう言ってもらいましょうか、ご老人」  始の声には、危険なひびきがあった。 「そして、永久にあんたとはお別れだ。今度おれたち兄弟の前に顔を出したら、あんたの豊かな老後は、逆転サヨナラホームランで終わりになる。これがあんたの礼節とやらに対するお返しだ」  老人は、ガードマンたちの人垣の後方で、わずかに両眼を細めた。九〇歳の老人と、二三歳の若者が、つぎの行動を完全に決定できずにいるとき、あわただしい足音と声がして。執事補のひとりが老主人の耳に何かをささやきかけた。老人の目が皮肉にきらめいた。 「始君、君の弟たちが、兄の安否《あんぴ》を気づかって駆けつけてきたそうだ。うるわしい兄弟愛ではないか」 「あんたの好きな教育|勅語《ちょくご》の精神にぴったりだと思うが」 「おお、たしかに見あげたものだ。機会があれば、高校あたりの副読本にしたいものだが、きて、吉と出るか兇とでるか、じつのところわしにもよくわからんな」  老人が視線を動かすと、ガードマンのうち二、三人が、いそいで駆けだしていった。侵入者を迎え撃つ準備は、おそらく、すでにととのっているのであろう。 「言っておくが、おれは兄弟のうちで一番弱いんだ。弟たちがやってきたら、こんなものじゃすまないぜ」 「そうかもしれんな。大いに期待しておるよ」  この夜、幾十度めかの、爬虫類的な笑いを、老人はつくった。あるいはこれも計算の上であるのかもしれない。  どうやら、夜ははじまったばかりのようであった。 [#改ページ] 第八章 さわがしい訪間者       ㈵  船津邸で夜半にひびきわたった銃声は、一部が森の外にもれて、通報により、神奈川県警の知るところとなった。京浜メガロポリスの一角にある以上、やはり人跡未踏の密林と同じわけにはいかないようであった。  報告した若い警官は、上司の巡査部畏から、そっけなくあしらわれた。 「あの屋敷は外国の大使館、いや、それ以上の聖域なんだ。あそこで何がおころうと、警祭はいっさい関知せんことになってる」 「どうしてでありますか?」 「どうしてもだ。おれやお前みたいな下っぱの知ったことじゃない」  一定の地位にある者は、さわらぬ神にたたりなし、を決めこむわけにはいかなかった。横浜市金沢区内の某警察署では、とんだトラブルにみまわれている。 「署長、たいへんです、パトカーが一台盗まれました」  一度とびあがった署長は、盗まれたパトカーが禁断の船津邸へ直進しているときいて、空中でもう一度とびあがった。退職金と恩給と天下り先という三種の神器が、彼の脳裏でネオンのように点滅した。ようやく着地したところへ、強奪されたパトカーに高林官房副長官が乗っていたとの報告がもたらされた。  よほどの厄日、いや、厄夜のようであった。 「一度パトカーに乗ってみたかったんだよな。これでひとつ望みがかなったから、あとは消防車と救急車だ」 「ぼくは葬式自動車に乗ってみたい」 「まあ、いずれは実現できるでしょう。さしあたり、運転手から目をはなさないようにしてください」  竜堂家の三兄弟——続、終、余の声を聴きながら、内閣官房副長官の高林は、パトカーのハンドルをにぎっていた。むろん趣味でこんなことをしているわけではない。古代世界の戦争捕虜のように、戦いに負けて労役を課せられているのだった。  竜堂始の拉致《らち》に、ぶざまな失敗をとげた直後、高林は方針を転じて、続ら三人をターゲットにすることにしたのだった。兄よりは弟のほうが、あしらいやすいように思えたのは、判断の甘さというものだが。「御前に見はなされるかもしれない」という恐怖が、彼を逆上寸前の状態に追いこんでいた。 「次男以下の三人は、私の手で処理してくれる。私の手腕を、力量を、御前に見せてさしあげよう」  高林が宣言したとき、彼のそばにたたずむ奈良原は、すすけたような顔色で無言を守っていた。彼としては、もうこりごりという心境だった。一度の経験で危険を見ぬいて、竜堂兄弟に近づくまいと決意した点。彼のほうが高林よりよほど実戦での判断能力がすぐれていたかもしれない。ある種の秀才というものには、成功を前提として構想し実行するという一面があって、往々にして撤退の機を逸する。高林は、「御前」に見はなされかけた時点で、さっさと公職から身をひいて、せめて老後の平穏のみを願えばよかったのであろう。だが、彼のメンタリティは、敗北を許容することを拒否した。そして、あげくに、短時間のうちに、またしても不名誉な敗北をこうむることになったのである。  部下たちが全員たたきのめされたところで。奈良原はスカンクよりすばやく逃げだしてしまい、置きざりにされた高林は、あっけなくつかまってしまった。  続がごくわずか。腕に力をこめただけで、高林の頸骨《けいこつ》がきしみ、現職の内閣官房副長官は、老《お》いた鶏のような声をもらした。 「ぼくは兄のように寛大ではありませんからね。あなたの苦痛に同情したりはしません。兄のところへ案内しなければ、左足の小指からはじめて、二十本の指を全部へしおってさしあげますよ。それから麻酔なしで歯をぬいて……」  続の秀麗な顔にうかんだ表情と、具体的な拷問の描写とが、高林を屈伏させた。船津老人に見すかされたとおり、権力と権威が通用しない相手に対して、高林は単なる無能者でしかなかった。権力社会のピラミッド構造を離れると、何もできず、何かをする意思すら生じず、自分より強い立場の相手に唯々《いい》諾々《だくだく》としてしたがうことしかできなかった。  こうして、高林は、自分の息子より若い竜堂家の兄弟たちのために、ガイド兼運転手兼人質として、鎌倉の奥にある船津邸へとパトカーで乗りつけたのである。  パトカーは門扉をうち破り、船津邸の敷地に走りこんだ。というより、転がりこんだ。ガラスは割れ、ボンネットはへこみ、塗装は剥がれ、タイヤとボディは口やかましく不平を鳴らしながら。  前方には、黒々とした森がひろがっている。超過勤務のパトカーからとびおりた続は、夜の闇をすかして、森の樹々に身をひそめた、石づくりの洋館の姿を見出していた。 「あそこだな?」  終に襟首をつかまれて車外にひきずりだされた高林が、失業寸前のなさけない表情で、続の質間にうなずく。  四人は、小石を敷きかためた道を早足で歩きだした。正確には、最年長者は襟首をつかんでひきずられたままだ。  前方から、数本の光芒が差しこんできた。ついで、一〇人以上の靴音と、犬のうなり声。立ちどまった兄弟の前方に、敵意が展開し、誰何《すいか》の声が投げつけられた。 「そこにいるのは誰だ?」 「問われて名乗るもおこがましいが、歌って踊れる超能力者」 「なに——?」 「竜堂家の三男坊、終坊ちゃんとは、おれのことさ。妹さんから評判を聞いていない?」 「妹なんぞおらん」 「そりゃ残念。でも、まあ、その顔に似た妹じゃ、いてもしかたない……」  その語尾に、つぎの自己紹介がかぶさった。 「ぼくは四男の余です。兄が暴走しようとしたらブレーキをかけるのが、ばくの役目で、おかげで物心ついて以来、苦労がたえません。こまったものですね」 「こら、そんなことを言っていいのか、恩知らず!」  弟たちの漫才をほうっておいて、続はガードマンたちに正対した。 「ぼくたちは、兄を迎えにきただけです。深夜までお邪魔するのもご迷惑でしょうからね。ちゃんと手土産《てみやげ》も持参したことだし、おとりつぎ願いましょうか」  後じさりしようとする高林を、自分たちの前に突きだしながら、不敵に笑う。 「……ここのご主人にね、ゴゼンだかゴゴだか知らないけど」 「口をつつしめ、孺子《こぞう》!」  ガードマンの主任らしい中年の男が、すごみのある声を発した。びくりとしたのは、他のガードマンや犬たちで、若い侵入者たちは平然としている。  にわかに、ガードマンたちの後方で、はげしい物音が生じ、彼らは身体を硬直させた。命令をまたず、洋館の方向へ身を躍らせたドーベルマンやマスチフが、数秒後、悲鳴をあげて逃げくずれてきた。ガードマンたちの足もとに、背骨をくだかれたマスチフの死体が重々しく投げだされる。  視界にゆっくりと姿をあらわした若者を見て、続が安堵《あんど》の笑顔をうかべた。 「兄さん、無事でしたか、よかった」 「いや、充分に有事だったが。まあ最後の幕にはまにあったようだな」  始が身につけているのは、多少寸のあわないガードマンのシャツとスラックスで、それを見れば、おおよその事情は推察できる。 「バーゲン品を着ていってよかったですね、兄さん」 「何をぬかす。あれはおれが最初の給料をはたいて買った——」  言いかけて、ガードマンたちの血を噴くような視線にぶつかり、さすがに苦笑して沈黙する。  ガードマンたちの手にした散弾銃や日本刀が、ゆっくりと上がりはじめたとき、またしても彼らの後方にざわめきがおこって、人垣が左右に割れた。  闇の奥から浮きあがってきた人影を認めて、高林が悲鳴をしぼりだした。 「ご、御前……!」 「高林か」  老人の声には、慈愛の一片もない。まるで叱られた犬のように身をちぢめ、顔を地面にすりつける高林だった。 「治世の能吏《のうり》、しょせんは乱世の鼠《ねずみ》でしかないと見えるな。書類の上で人と数宇を動かすことにはすぐれても、いざ予定というものの立たない場では、自分の歩幅を測《はか》る能すら失うか」  老人の表情が変わって、自嘲の色をただよわせた。 「お前などを頼みにしたのは、わしの不覚であった。いや、お前などが傑出して見えるほど、この国の人材は乏しいというべきかもしれんな。この半世紀ばかり、わしは、どうやら盆栽《ぼんさい》ばかりを育てて、一本の大木も育てあげることができなんだらしい」  老人は、視線を竜堂兄弟に転じて、不吉な笑顔をつくった。 「この役たたずの身柄と、君たちの安全とを引きかえるなど。ありえぬことだ。首をひねるなり、踏みつぶすなり、勝手にするがよい」 「あんたの負担を軽くしてやる気はないね。子分をかたづけたければ、自分の手を汚すことだ」  言うなり、始は老人に背をむけて歩きだした。 「帰るぞ、みんな」 「え、来たばかりなのに?」 「残りたいなら、終君だけ残って、人体実験でもやってもらうんですね」 「……やめた。アルバイト料も出そうにないしね」  銃や日本刀の列を無視して歩きだした一同に、ガードマンのひとりが近より、怒号をあびせかけた。 「脳天気な儒子《こぞう》どもめ。御前のお屋敷に土足で乱入して、無事に帰れるとでも思っているのか」  単純だが効果的な威嚇《いかく》だった。口調といい表情といい、手にした日本刀といい、まともな神経を持った人間なら。ふるえあがって口もきけなくなったにちがいない。ところが、竜堂兄弟にかかると、このような行為は、すべて当人をなさけない三枚目におろしてしまう結果になるのである。このガードマンも例外ではなかった。始と続は、めんどうくさげに、立ちどまりもしなかった。好戦的な三男坊が、ふりむいてガードマンに対し、ひょいと片足を動かした。かるく動かそうとしただけに見えた。  片ひざを蹴りくだかれたガードマンは。絶叫をはなって後方にころがった。他のガードマンたちは息をのみ、「思ってるよ」という一言を残してさっさと歩きだした終の後姿を見送った。まことに体裁《ていさい》の悪いその場の空気を、老人が苦笑まじりに救った。 「行かせてやれ。どうせまたすぐに会える。盛大な歓迎式をやるには、この屋敷でもせまいし、準備も完全にはとどのっておらん」  あわただしくもどってきたガードマンのひとりが、竜堂兄弟が門内に駐車していたガードマン用のジープを無断借用して出ていった旨《むね》を報告した。 「出ていきおったか。このていどの損害ですんで、やれやれじゃ」 「東京方面へむかったようです」 「であろうな。人口のすくないほうへは、なかなか逃げんものじゃ」 「追いつめますか」 「ばかな。大都会のまんなかで騒動をおこすつもりか」  老人は舌打ちしてみせた。 「鳥羽家のほうには、きちんと監視をつけておるな、では、鳥羽家の小娘、妙な名であったが、はて」 「鳥羽茉理でございますか」 「そう、そやつから目を離すな。あの小娘のおかげで、高林の小細工も失敗したのじゃ。いずれあの小娘、かならず竜堂兄弟からの連絡を受けるであろうよ」 「は……」 「それからのことは、あらかじめ命じたとおりにやればよい。自衛隊に遅絡はしておいたであろうな。ひさしぶりに、おもしろいショーが見られるだろうて。ここまでくれば、多少の手間をかけるのも楽しみのうちじゃ……」  そのとき、地面すれすれの位置から。あわれっぽい声を押し出した者がいる。 「ご、御前……!」  老人は、聞こえぬふりをよそおった。ガードマンたちにかこまれて、ゆっくりと洋館にもどりかける。地面に土下座していた内閣官房副長官が、両手ではってそれに近づこうとしたが、ガードマンの主任に一喝された。 「見ぐるしいですぞ、高林さん。あなたは御前のご期待にそむいた。しかも、あのような無礼者どもを、わざわざ案内してくるとは、御前のご恩を讐で返すもの。罪にふさわしい罰を、覚悟なさることですな」  高林がへたりこんでしまったのと同時刻、バトカーを盗まれた某警察署では、部下の報告を受けた署長が不快のきわみに立っていた。 「公安からの伝達です。今夜、船津邸周辺でおこった一連のできごとは、いっさい外部に黙秘するよう。とくにマスコミおよび野党に洩れたときは責任をとるように、と」 「また公安か!」  舌打ちする署長の顔に、どす黒い怒りの縞模様があらわれた。 「やつらは、おれたち刑事警察を、自分たちの下働きだとでも考えているのか。命令がましく要求ばかりしてきて、ろくに事情の説明もせん」  積年の不満を爆発させて、一刑事からたたきあげた署長は、同じ警察仲間をののしった。 「署長、それ以上おっしゃっては……」 「かまうものか。おれは事実を言ってるんだ。やつらのおかげで、どれだけ警察のイメージが落ちてると思うんだ。やってることは、スパイと盗聴と情報操作だけじゃねえか。あげくに、警察をやめたあとは選挙に出て議員先生だぜ。何だってあんな奴らといっしょくたに権力の犬よばわりされなきゃならんのだ」 「ですが、パトカーが一台盗まれたことは事実で」 「ふん、それこそ機密事項だ。公表する必要はないし。気前のいい公安どもが新車を買ってくれるだろうよ」  署長は、全体重を椅子の背にあずけ、椅子をきしませた。 「おれたちの知ったことじゃねえ。何がおころうとな」  ……というわけで、一部の人々にとって、事件は完全に終わったのであった。       ㈼  べつの一部の人間にとっては、何も終わってはいない。夜明け直前、交通量がさすがにすくない横浜市内の道路を、ジープを走らせながら、竜堂始はこれからのことを考えていた。船津老人との、不毛で相互無理解にみちた対面の時を思いだすと、胃のあたりが重苦しくなる。後部座席でのんきに「二文字尻とり」などはじめた年少組の姿を、バックミラーに見出すと、ため息がでた。 「しかし、つくづく危機感のない奴らだ」 「ま、悪びれないのが、あのふたりのよさですよ」  助手席にすわった続が笑う。 「あれで、兄さんを信頼してるんですよ、終君たちは。ぼくもそう思ってます。究極のところ兄さんにまかせておけばいいって」 「しかしなあ、おれはまだ二三歳だぞ。去年、大学を出たばかりの、世間知らずの青二才だ」  弟たちが言えば不愉快になるようなことを、始は自分でロにした。 「もうすこし安直で気楽な生きかたをしたいと、つくづく思うぜ。おれの友だちなんて、大半、かけだしのサラリーマンで、半人前の地位を楽しんでるっていうのにな」 「ぼくが物心《ものごころ》ついたころから、兄さんは一家の長兄でしたからね。ずっと頼りっぱなしで、ご迷惑かけてすまないと思ってます」 「殊勝《しゅしょう》なことをいうけど、どうせ、これからもよろしく、とつづくんだろうが」 「ご明察……で、あの老人と、どんなお話をなさったんです? 事故がおきないていどの範囲で、教えてください」 「…………」  即答せず、始は、夜明け前のひときわ濃い闇を前方に見つめた。続は、兄の気性をのみこんでいるから、無用にせきたてることはせず、沈黙して待った。やがて、ひとつ頭を振ると、始は吐きすてた。 「おれたちは、中国の伝説にいう四海竜王の生まれかわりだとさ。どうだ、ばかばかしいだろう」  それから、かなりの時間をかけて、始は老人の口から聞いた話を弟に伝えた。  聞きおえた後、続の反応には、一瞬の間があった。 「船津老人がそういったことを、兄さんは信じますか?」 「うん……大枠《おおわく》としては、信じてもいいと思ってる。祖父さんが中国の異地で何か発見した、ということはな。だが、四海竜王の転生なんてことになると、伝奇小説の読みすぎとしか思えないな」  いったんことばを切ると、 「おまえのほうは、どう思うんだ、続」  兄に反問されて、続は考え深そうに。形のいいあごを指先でつまんだ。対向車のヘッドライトが通過し去ってから口を開く。 「頭から信じる気にはなれませんね、どうせよからぬ思惑が絡《から》んでいるにちがいありませんから。ただ、ぼくたちが普通の人たちと、ほんのすこしちがっていることは事実ですし」 「ほんのすこし、か」  始は苦笑した。老人のことばを思いだしたのだ。車のドアを素手でひきちぎるような行為は、平凡とはいえない、と。  それだけを口にして、始が黙っているので、続は、前方の閣と光の交錯を見つめたまま、語をついだ。 「それに。ぼくたちと他の人々との差異が、どこからもたらされるものか。その疑問に、竜王転生説とやらは、いちおう答えてくれます。一方、ぼくたちのほうはといえば、その説を明確に否定する根拠を持ちません」  続の意見が正しいことを、始は認めた。船津老人の証言は不快なものだが、それに対する反証が、竜堂兄弟のがわには存在しないのである。自分たちのアイデンティティを証明する機会が、他者の手ににぎられていると思うと、いい気分ではないのはむろんだった。 「いっそ、その竜泉郷とやらに行ってみれば。もっと正確なことがわかるかもしれませんね」 「おいおい、あまり先走るなよ。伝奇アクション小説が、秘境冒険小説になってしまう」  始は冗談めかしたが、続は意外に真剣だった。 「どうせ日本を出るかもしれないんでしょう? だとしたら、ハワイに行こうが、南極に行こうが、中国の奥地へ行こうが、変わりはありませんよ」  柔和そうな美貌で、ロにすることが大胆である。始はハンドルをにぎったまま、やや本気で弟の提案を考慮した。 「仮にそういうなりゆきになったとしてだ、旅費はどうする?」 「お金銭《かね》でしたら、兄さんが預金口座の封鎖をとかせた直後に、全額引きだしてあります。もう銀行を信用するわけにはいきませんからね」  これから先、どこへ行くにも現金は手離さないほうがよさそうですね、と、続は言った。 「それで現金はどこに置いてある?」 「品川駅のコインロッカーです。これが鍵《キー》」 「いまさらじゃないが、おまえはよく気がつく男だよ。保守党の幹事長ぐらい、将釆はつとまるんじゃないか」 「野党の書記長のほうが、おもしろそうですね。ところで兄さん」 「うん?」 「四海竜王の転生とやらいう話は、ぼく、聞いたことがありますよ」  あやうく始はハンドル操作を誤りかけた。 「あぶないですよ、兄さん」 「だ、大丈夫だ。それより、おまえ、いま言ったのは、どういう意味だ!?」  車を安定した姿勢にもどしながら、始が問うと、続は笑いもせず語りはじめた。 「お祖父さんがまだ元気で、ぼくがほんの子供だったころ、お祖父さんが酒に酔ってそう言ったことがあるんです」  ……続がまだ幼稚園に通っていたころ、夜中にトイレに起きたことがあった。そのころは、階段があぶないというので一階の部屋に寝ていたのだが、トイレからもどる途中、祖父の書斎からわずかに光が洩れていた。ドアが完全に閉ざされていなかったのだ。祖父はテーブルの前の安楽椅子に身体をうずめ、半ば空になったスコッチの瓶にむかって、独語していた。「ふん、孫たちが四海竜王の転生した姿じゃと。事実だろうと啓示《けいじ》だろうと、信じたくないわい……」と。こっそりと続はその場を離れたが、「しかいりゅうおう」という奇怪なことばのひびきが、耳と心から離れなかった。後に辞書で意味は知ったものの、祖父の独語と結びつけるのは困難だった。 「……で、おまえ、何でそのことを黙っていたんだ、いままで」 「すみません。でも、話したら信じてくれましたか」  始は沈黙した。たしかに、無条件で信じはしなかっただろう。 「ばく自身、あまりまともに受けとってなかったんですよ。お祖父さんは、あきらかに酔っぱらっていましたしね。いま思えば、酔ったからこそ、心の閂《かんぬき》がはずれたのかもしれませんね」 「だが、とにかくたわごとだ。おれは信じないぞ」  頑固そうに始は断言した。彼は常識人なのだ。すくなくとも当人はそう思っている。「君子《くんし》は怪力乱神《かいりよくらんしん》を語るべからず」と信じこんでいるらしい。続にはおかしいが、これまた祖父ゆずりの性癖だろうか。  品川駅の近くで、四人は自動車を乗りすてた。コインロッカーに現金をおきっぱなしにはしておけない。それをとりだしたあと、終夜営業のレストランで空腹をみたし、始発電車で帰宅ということになりそうだった。 「いや、じつに充実した一夜だった」  脳天気な感想を口にして、終が夜明けの空をあおいだ。 「あとはゆっくり休んで疲れをとれば、明日から元気な高校生にもどれそうだな」 「今日は日曜日じゃありませんよ、終君」 「わかってるけどさ、高校時代に皆勤《かいきん》賞をとりました、なんて、貧しい青春を送りたくないんだよ、おれ」 「とっくに貧しさは卒業してるでしょう。先々週だったか、味つけ用のワインを飲みほして、宿酔《ふつかよい》で学校を休みましたね」 「始兄貴、何とか言っておくれよ」 「学校に行くんだな」 「あ、冷酷無情!」 「学校に行って適当にさぼってろ。家にいるよりむしろそのほうが安全だ」  笑いもせずに長兄は命じ、弟たちは一瞬、しんとした。       ㈽  不安定ながらも、表面上は、ことなく二週間が経過した。  その間に、内閣官房副長官の高林が、現職のまま、急性の心臓疾患で急逝した。海のむこうでは、アメリカに地所を入手して長期滞在中の古田代議士父子が自動車事故で死んだ。死後、自宅から脱税や収賄の証拠物品が発見され、政治的報復を恐れる必要のなくなったジャーナリズムは、いたけだかに死者の旧悪をあばきたてた。古田代議士に置きざりにされた形の秘書が変死体となって発見され、警察は自殺と発表し、ジャーナリズムはそれをそのまま報道し、一件はほぼ落着した。  竜堂一家は、創立記念日と日曜日との小連休を利用して、丹沢山ヘキャンプに行った。梅雨前の快適な初夏の候でもあり、この春の厄《やく》おとしをかねて、気分転換をはかったのである。  その最終日の夕方、麓《ふもと》の町までおりてきた兄弟は、何も終わってはいなかったことを、思い知らされた。バス停近くの売店で夕刊を買い求めてきた続の表情が硬い。 「兄さん、この新聞を……」  弟の声が凍っている。それを感じとったものの、新聞記事の内容は、始の想像を絶した。彼らの叔父である鳥羽靖一郎の一家三人が、殺害されたというのだ。誰に? 彼ら自身に! 「学園乗っ取り、血肉の争い」 「叔父一家を惨殺、甥兄弟逃亡」 「教育界の名門、悲惨な末路」 「自由の校風に血の惨劇」  それが、どぎつい見出しと一方的な内容で有名な新聞であることを割りびいても、充分な衝撃だった。どうやら竜堂兄弟は、下界を離れたわずかの間に、兇悪な殺人犯にされてしまったようであった。 「まさかと思ったけど、この策《て》で来ましたね」 「…………」 「ぼくたち、そろって極悪人あつかいですよ。新聞がまた例によって、警察発表をそのまま信じこんで独自の調査もせずに、一方的に書きたててます」  竜堂兄弟の不在をねらって、この挙に出たのは、妨害されるのを恐れてか、べつの意味があるのか。続にはそれも気になる。 「どう書かれようと。生きているだけましさ」  憮然《ぶぜん》として始はつぶやいた。 「こんなことになるのなら、叔父貴たちに、もうすこしやさしくしてやるんだったなあ」  そう言ったのは、始のやさしさというより甘さであろう。続の目が、そう語っている。どう考えても、やさしくしてもらう権利は、竜堂兄弟のがわにこそあったはずだからだ。  靖一郎叔父と始と続とが、学院経営をめぐって話しあったとき、もっとも舌鋒《ぜっぽう》がするどかったのは続だった。 「叔父さんが学院を乗っとるのは、かまいませんよ。ですが、古田代議士のような、半世紀遅れのナチス党員に学院を売りわたすのは、やめてください。あんな狂犬にいいように命令されて、叔父さんは屈辱を感じないんですか」 「私は古田代議士なんぞ恐れてはおらん。見そこなわんでくれ」 「へえ! 誰です、それは」 「古田先生よりずっと大物だ」 「身長が二メートルぐらいあるんですか」 「……お前には何もわかっとらんのだ」  叔父の声に恐怖がみなぎった。つい口をすべらせてしまったことに、後悔を禁じえないようだった。顔色まで灰色にして、だまりこんでしまう。針のない針鼠《はりねずみ》めいたその姿が、続の辛辣《しんらつ》さを刺激した。こうも小心者であるくせに、欲ばかり深い叔父に、続は1ミリグラムの同情もいだいていない。 「日本は先進国で自由主義国で民主主義国だと思ってましたよ。すくなくとも教科書じゃそう教えてる。ところがそうじゃなくて、教科書で嘘を教える国だったんですね」  痛烈にそう言いつのる続の横で、始は沈黙していた。  叔父の恐怖ほほんものだ、と、始は思った。古田代議士に対する恐怖は、狂犬に対する恐怖にひとしい。だが、「ずっと大物」とやらに対する恐怖は、半ば神話的といってよいほど深刻なものだ。  ……ずっと大物とやらが、船津老人であることは、いまではわかっている。  高林や古田が、病死や事故をよそおって粛清されたのは、船津老人が、竜堂兄弟の件から撤退をはかっているからではないか、と、始は考えていた。というより、そう考えたかったのだ。何とまあ、甘い認識であったことか。船津老人は、決戦にそなえて身辺を整理し、生きた秘密|漏洩孔《ろうえいこう》たちを始末しただけのことだったのだ。  それにしても、まさか叔父たち一家を殺害して、その罪を竜堂兄弟に着せる——そこまでドラスティックなやりかたをするとは思わなかった。これは始たちが甘いのではなく、船津老人が辛《から》すぎるのだが、だといって何のなぐさめにもならない。  このとき、終が意見を言った。新聞に、「少年B」と書かれた三男坊は、大胆に言ってのけたものである。 「竜堂《うち》家に電話をかけてみよう。警察がいるならいるで、反応が何かあるはずだぜ。ようすを知ることができるかもしれない」 「いい考えです」  と、少年Aこと続が賛同した。  提唱者の少年Bが、それを実行した。呼出音《コール》が四回鳴ったところで、竜堂家の電話の受話器がはずれた。  受話器から流れだす声は、陰気だが明研《めいせき》であった。 「……用件のみ。君たちの叔父一家は、じつは生きている。君たちが招待に応じてくれれば、彼らは外国で安楽に募らせるはずだ……だが、もし拒否すれば、彼らは、新聞記事のとおりの運命をたどることになるだろう」  そうしたくなければ、明朝八時、指定の場所に来ることだ、と声は告げ、その場所を二度くりかえすと、一方的に切れた。 「自衛隊の演習場だってさ」  少年Bはそう兄たちに告げた。  新聞記事まで出ているとあれば、竜堂家が警察に包囲、捜索されているのは当然であろう。だが、家のなかには、船津老人の息が大量にかかった者がいて、超法規的に行動し、竜堂兄弟からの電話に答えたにちがいない。つまりは、船津老人は、竜堂兄弟を逮捕させたくないのだ。遠捕から裁判ということになれば、いっさいを非公開にするわけにはいかない。さしあたり、竜堂兄弟の退路をたち、老人の指示どおりに動かざるをえない立場に追いこんだ、ということであろう。  反撃手段として、わざと逮捕される、という方法は、この際とれない。四人がばらばらにされてしまうし、無罪になるにしても時間がかかりすぎる。船津老人の手が、拘置所や刑務所のなかにだけはとどかない、とも思えない。それに、万が一、老人の「竜王転生説」が何らかの形で証明されたりしたら、あとは人権などいっさい無視され、生体実験の材料にされるぐらいが落ちだろう。  老人が、非公開に固執《こしつ》し、無法な手段に訴えるかぎり、こちらも無法な手段で反撃してよいはずである。この際、徹底的に反撃し、船津老人自身をひねってしまおう。そうもっとも強硬に主張したのは、少年Bこと終で、少年Cこと余も、ごく鷹揚にそれに賛成した。 「法律はどうします?」  ことさらのようにそう口にしたのは、少年Aこと続である。 「はん、法律!」  元気のよすぎる三男坊は、鼻で笑った。 「今回の件で、法律がおれたちを守ってくれたことが一度だってあるかい? 権力と法律を武器にして、奴らはおれたちに危害を加えてるんじゃないか。もはや革命あるのみ。造反有理《ぞうはんゆうり》。おれたちに明日はない!」 「ぼくには美しい明日があります。君といっしょにしないでください」  礼儀ただしく決めつけておいて、統は兄を見やった。決断を求めている。昔から、兄の決断を兄弟全員の決定とさだめるとき、続はこうやって兄を見つめた。竜堂家における次男坊の存在意義を彼は知っていた。  長男坊は決断をくだした。いささかひねくれた表現を使いはしたが。 「叔父さんや叔母さんだけなら、お気の毒に、成仏なさい、ですむけど、茉理ちゃんを見殺しにしたら、一飯どころか千飯の義理を欠くからな」  すこしおかしげな表情で、続はうなずいた。 「では出かけましょう。ただ、その前に小田原か熱海あたりで現金をコインロッカーにでもあずけておいたほうがいいでしょうね」  よく気のつく次男坊は、そう提案した。 [#改ページ] 第九章 演習場       ㈵  その日、陸上自衛隊の富士山東南麓にある演習場では、東部方面総監部に所属する、定員九〇〇〇人の師団が演習をおこなうことになっていた。防衛庁長官が渡米しているため、土建屋あがりの政務次官が代理として出席し、さらに、一部のかぎられた人間だけが知るVIPが臨席していた。  広大な演習場は、高原性の朝霧にけむっている。  わずかな風が霧をひるがえすが、そのすべてを吹きはらうほどの力はない。富士山の姿も、霧の奥に隠れて、まったく見えなかった。 「見はらしが悪いじゃないか、せっかくの演習なのに」  ゆでた蟹《かに》のような風貌の政務次官は、まるで自衝隊が悪天候を演出したかのような口ぶりである。査閲《さえつ》にあたる陸将は、いかにもすまなそうに頭をさげた。この政務次官が、若いころ自衛隊に入隊して、厳しさに耐えきれず、すぐ除隊したことを、陵将は知っていた。  政務次官のかたわらに、ひとりの老人がすわっている。おりたたみ椅子に、端然と腰をおろし、医師と秘書らしい男をしたがえていた。  訓練開始時刻となり、陸将が型どおりの訓辞をすませたところで、ハプニングが生じた。榴弾砲《りゅうだんほう》の実射を指揮する士官の双眼鏡が、着弾予定地付近に四個の人影を発見したのだ。 「ばかな……」  指揮官はうめいた。実弾演習のさなかに、民間人がのこのこ演習場にはいってくるとは何ごとであろうか。あわてて彼は砲撃の停止を命じ、陸将のもとへ指示を求める連絡をとった。  結果は意外であった。 「演習を統行せよとの命令です、二佐」 「そんなばかなことがあるか! 現に、演習場に人間がいるじゃないか。力ずくでも退避させろ。演習はそれからのことだ」  侵入者をつかまえれば、むろん、ただではおかない。過激な反戦グループか、頭のねじがゆるんだ病人かだろう。二度と愚行をおかさぬよう、身体に思い知らせてやる。そう思っていた  ところが、命令は再考の余地を与えない。 「君は命令にしたがい、演習を査閲《さえつ》し、しかる後にいっさいを忘れればよいのだ。すべては、吾々《われわれ》などのうかがい知ることのおよばぬ次元で決定されたことだ」 「……わかりました」  軍において、上官の命令は絶対であるはずだ。まして、「さらに、ずっと上」の意思とあれば、あらがいようがなかった。 「だいたい、実弾演習のときに演習場に侵入するほうが悪いのだ。砲弾にあたっても自業自得だ。第一、あたるともかぎらん。たぶん、おどろいて逃げ出すだろう」  そう自分に言いきかせて、指揮官は、実弾射撃の指令をくだした。  すさまじい着弾音とともに、土砂の柱が、一〇メートル以上の高さにまでそびえたった。  土の雨をあびた四人の不法侵入者は、埃をはらいながら立ちあがった。むろん、この四人は、将来、竜堂家の先祇代々の墓にはいるべき予定の面々だが、生きながら土葬または火葬に付されるには、まだ若すぎるはずであった。平均年齢一七・五歳である。 「罰あたりめ、納税者を撃ちやがる」  始が低声でののしった。演習場に不法侵入した自分たちの責任を忘れているわけではないが、好きこのんではいってきたわけでもない。銃弾や日本刀など恐れないし、自衛官が一個大隊いようとのしてしまう自信はあるが、火砲となると、そういつもの脳天気ぶりを発揮してもいられないはずだった。 「それにしてもさ、おれたちが叔父さんたちを助けそこねたら、やはりこのまま一生、兇悪殺人犯ってことにされてしまうのかな」 「そうだな。五〇年もたったら、冤罪《えんざい》事件として、ジャーナリズムが騒ぎたててくれるだろうよ。だが、それまでは極悪人あつかいさ」 「じゃ、やっぱり日本を逃げだすの?」  余が真剣そのものの表情で問いかける。 「さて、一考の余地はあるが……」 「アメリカに逃げても無益ですよ。古田代議士の例がありますからね。どうです、いっそのことソ連大使館にでも逃げこみますか?」 「できれば、そいつも願いさげにしたいね」  始は冗談っぽい口調をつくった。 「寒い国には、船津忠巌より寒さにつよい黒幕がいるだろうからな。それに、ソ連にはプロ野球がないだろ」 「巨人が負けた翌日に、巨人系のスポーツ新聞を読む楽しみがなくなりますね」  至近《しきん》に一弾が落下し、四人は耳をおさえて地に伏した。土と小石のシャワーをあびる。 「それにしても、兄さん、何か気になってるようですが、どうしたのか話してくれませんか」 「うん、妙な言いかただが、おれたちの前に立った奴は、そろいもそろって大根役者みたいに見える。エリート官僚らしいエリート官僚、暴力政治家らしい暴力政治家、あげくが、いかにも黒幕らしい黒幕……」  始は不快そうに首をふった。 「日本の社会なんて奥行きが浅いし、とくに政界なんて石器時代から進化していないから、それが当然なのかもしれないが、どうも、すっきりしない」  砲声がとぎれた瞬間、走って起伏の蔭《かげ》にひそむ。つぎの砲声がひびきわたる。 「わかるような気がしますよ。彼らがみんな仮面をつけて自分の役割を演技しているような感じなんでしょう」  続のことばに、始はうなずいた。近くでまた一弾が炸裂する。 「うん、だいたいそういうことさ。おれには奴らが俳優——というより、巨大なジグソー・パズルの一片に見える」  ジグソー・パズルの一片一片は、他と形がことなり、いかにも個性を持っているように見える。だが、結局のところ、それは、最初から、予定された場所にはめこまれる、全体のなかの一部品であるにすぎない。  古田や高林だけではない、あの超絶者をよそおった「鎌倉の御前」こと船津忠巌老人も、じつは最初から予定調和にくみこまれたジグソー・パズルの一片ではないか。そういう気が、始にはする。それどころか、彼に抵抗し敵対することさえ。パズルの形成に手を貸す行為であるのかもしれない。 「悪ってやつは、それ自体で存在することはできないはずだ。それは何か対象や寄生すべき宿主があって、はじめて存在する。そうじゃないか」  砲声、轟音、閃光、黒煙、土砂。 「殺人なら、加害者がいれば必ず被害者がいる。戦争なら、侵略者がいれば必ず侵賂される弱者がいる。そういうことですね?」  またしても砲声以下のフルコース。 「そうだ。人類全部が悪に支配される、ということはありえない。すべてが悪になれば、寄生すべき宿主を失って、悪自体が生存できなくなるはずだ、だから……」 「どうしてうちの兄貴たちは、こうも哲学的なんだろうね」  にがにがしく、三男坊が論評した。 「この際だからさ、おれたちが生き残るのが善で、砲撃してくる連中が悪だと、割りきってくれよ。もし生き残れたら、あとで反省でも悔悟《かいご》でもするからさ」  次男坊が、かるく肩をすくめて兄を見やった。 「どうやら、今回は終君が正しそうですね、兄さん」 「そのとおりだな。まずは生きて帰ることを考えよう」  長男坊も苦笑まじりにうなずく。  船津老人は、竜堂兄弟が生命の危険にさらされて、「四海竜王」としての本身をあらわすことを期待しているのだ。銃や日本刀などでは効力がないと判明したので、火砲や戦車にエスカレートしたというわけだろう。これでも効力がなかったら、核兵器でも持ち出す気だろうか。その前に、竜堂兄弟の肉体が四散したらどうするのか、問いたいところだが、そうなれば老人にとっては、彼の役にたたない無名の若者が死んだというだけのことで、べつに悲しむべきことでもないにちがいない。 「とすれば、あの老人を喜ばせるために死んでやるのは、しゃくというものだな」  竜堂始は、そう思う。以前も言明したとおり、自分だけが犠牲になって、マゾヒスティックな自己満足にひたる趣味は、彼らにはないのだ。  もし老人の下で忠犬のように働くことを誓えば、古田や高林の最盛期のように、あるていどの権力や富を与えられるかもしれない。だが、古田や高林の末路を見てもわかるように、用ずみの道具は捨てられてしまうのだ。  まして、祖父の影響もあり、竜堂家の血もあってか、権力をもった人間に頭をさげたり、その頭をなでられたりするのは、生理的にいやなのである。どうころんでも対立をさけられないとあれば、むこうが喜ぶより、こちらの気がすむほうの道を選ぶべきだろう。       ㈼  またしても轟音とともに大地の一部がくだけとび、竜堂兄弟の頭上から土の雨が降りそそいだ。口のなかに土がはいりこみ、終がいまいましそうに唾《つば》をはきだす。  余の頭を腕でかばっていた続が、やはり唾をはいて、皮肉っぼくささやいた。 「御前とかいう老人は、きっと近くでこのありさまを見てるでしょうね」 「ああ、安全な特等席でな」  始は髪についた土埃をはらった。  叔父一家は、この演習場のどこにいるのか。いや。いることを強制されているのか。東京でいえば世田谷区全体より広い演習場は、もともと起伏にとんでいる上に、砲撃で地形が変わり、霧や砲煙とあいまって、自分たちの位置すら把握《はあく》しづらい。  それにしても、よくこんなことを考えつくものだ。自衛隊の演習場であれば、広大な、しかも閉鎖された空間で、ほしいままに火力を使用できる。竜堂兄弟を殺傷するにせよ、そのパワーを試すにせよ、大都会のまんなかでは、さすがに公然と、しかも大規模にやってのけるわけにはいかない。ここでは、日本国内で最大の物理的な破壊力を思うさま行使して、誰からの批判も干渉も受けずにすむのだ。たとえ竜堂兄弟が砲撃で吹っとんでも、死体が発見されることもないだろう。 「こわくないか、余?」 「冗談! 数学のテストのほうがよっぽどこわいや」  自分たちの肉体の異常な強靱《きょうじん》さを知っているからではあるが、いい度胸であるにはちがいない。 「だから言ったろ、始兄貴。あのなまず[#「なまず」に傍点]老人をちょいとひねっておいたほうがよかったって」 「そうだな、終が正しかったかもしれん。いまから、おまえ、やってみるか?」 「いまは無理だな。おれがやれるといっても、やれるとはかぎらないけど、やれないといったら、絶対にやれないんだぜ」 「自慢になるか」  弟の頭に手をやったが、なぐるわけではなく、二本の指でかるく押しただけである。 「とにかく、何としても茉理ちゃんを——茉理ちゃんたちを助けだすんだ。あの老人にお礼をするのは、それからだ。順序をまちがえるなよ」  始は念を押した。終と余はうなずいたが、続は沈黙している。もしかして、茉理たちはすでに害されているのではないか、あるいは、害されていないとしても、この演習場にはいないのではないか。その危惧《きぐ》がある。年少のふたりは、このような事態の判断を長兄にゆだねているから、その意味では気楽だが、続は長兄を補佐し、判断をたすける立場にあるから、そこまで気をまわさざるをえないのである。  竜堂家の兄弟たちにとっては、ごく自然なことなのだが、いまどきこのような家父長的な兄弟関係は、やはり珍しいだろう。なにしろ、自分たちが他の人々とことなる極少数派であることを知っているので、同志的な連帯意識も、たしかに存在する。 「竜王四兄弟か……」  始は内心でつぶやく。ばかばかしいと思いつつ、動揺めいたものも、ないではない。自分たちが人間ではない、という自覚が愉快なはずもなかった。  だが、と、始は思う。  ノアの洪水やら、ムー大陸やら、アトランチスやらの伝承はともかくとして、メソポタミア以来の人類の歴史で、天変地異が一国を滅ぼした例など、ひとつもない。妖怪や幽霊に滅ぼされたこともない。国を滅ぼす力を持ち、火山や地震よりはるかに大量に人間を殺すものは、人間である。 「おれたちが、たとえ人間以外のものだとしても、人間のほうがよっぽどおそろしいさ。まあ、できるなら、多数派人間のまねはしたくないものだ。竜種[#「竜種」に傍点]としてはな」  ……その、「おそろしい」人間の代表ともいうべき船津忠巌は、テントのなかで下品にさわぎたてる防衛政務次官を、ようやく黙らせたところだった。老人のステッキで口もとを打たれた次官は、赤く染まった口をおさえ、土下座して自分の罪を謝した後、演習場から退去していった。このときの彼は、自分の失態に失神寸前だったが、結果として、それが彼の生命を救うことになる。 「竜堂始君、君がもし、わしの手のとどかぬ行動に出た場合、君の叔父一家は車もろとも吹きとぶことになる。心して行動してくれるよう望む……」  それは老人の内心の声である。彼は、面目を失った政務次官のことなど、演習場の石ころほども気にとめていない。 「ここまでやるつもりは、正直なかった。だが、彼らをどこかに幽閉するとか、拘引《こういん》するとか、そのような微温的な行為では、君たちをしばることはできないと思い知ったのでな。叔父たちが死ぬとしたら、それは君があまりにかたくなで道理を知らぬからだ。君たちが叔父たち一家を殺すのだ」  砲煙を遠く望みながら、老人は、その砲煙に似た薄い笑いをうかべた。自分の論法が理不尽《りふじん》なものであることを、老人は知っていた。だが、それがどうしたというのか。 「……もし君がわしの忠実な僕《しもべ》となって、わしと日本の役にたってくれるなら、君が奪われた共和学院を、君に返してやろう。それどころか、将来は参議院議員ぐらいにはしてやってもよい。弟たちも、それぞれの器量にふさわしい地位を与えてやろう。いくら悪くても。古田や高林ていどにはなれる。あくまでも、わしの配下としてだ」  砲声がかさなって、老人の耳にこだまを送りこんできた。 「……ふん、竜堂司め、自分の孫たちが、わしの配下として生きるしかないと知れば、あの世で歯がみするだろう。竜種のくせに、わしより早く死んだ奴めが悪いのだ」  砲声とはことなる音が鼓膜をたたいて、老人は視線に意識をこめた。一時的に砲撃がとだえた空を、一機の軍用ヘリが飛翔していく。機銃射撃によって侵入者を追いつめ、捕縛する、と、陸将が説明した。老人の瞳が、一瞬、不機嫌そうに光ったが、無言で双眼鏡をのぞきこむ。まあやってみるがいい、と、声を出すことなく口だけが開閉した。  ヘリが数度の旋回の後、高度を大きくさげて着陸の姿勢をとったとき、黒い小さなものが地上からヘリの回天翼を直撃した。犬の頭ほどもある石が投げつけられたのだ。  ヘリは失速し、見えないローブで強引にひっばられるように丘の中腹に突っこんだ。  霧の一角が白くかがやき、ついでオレンジ色の火球と爆発音がはじけた。思わず身を乗り出して双眼鏡をのぞきこんだ陸将の、頬からあごへかけての線が硬直している。 「ヘリが墜落しました」  正確だが無益な報告に、陸将がうめいた。  砲撃が再開された。  たてつづけに砲煙があがり、土砂と爆発音が感覚を侵略してくる。  終と余は、一弾をかわしたとき、兄たちと反対の方向へ跳躍したため、離ればなれになってしまった。連続する着弾が、さらに二組の距離をあけていく。  鈍い、くぐもった、数百の鎖をかきまわすような音が、土煙のなかからひびいた。砲声ではない。黒い巨大な影が、煙をひきさいて、終たちの前に金属製の姿をあらわした。 「戦車——!」  ふたりは息をのみこんだ。さすがに、「かっこいい」と手をたたく気にはなれない。終はそれでも指をつきつけて叫んだ。 「高校生や中学生を戦車で追いまわすのは、憲法違反だぞ!」 「そういう問題とはちがうんじゃない、この際?」 「うるさい、年長者に口ごたえするな」  弟をしかりつけておいて、終は、どう対処するかを考えた。  今度は反対側からキャタピラの音が肉迫してくる。ひき殺すつもりか、機銃で掃射するか。それに対して、遠く離れるべきか、接近すべきか。  迷ったまま、終は弟の身体をつきとばし、自分もその方向へ飛んだ。オレンジ色の火線が、それまで兄弟が立っていた位置の地面に溝《みぞ》をうがち、土と草と小石をはねあげた。一転して半身をおこした終は、眼前にいま一両の戦車の巨体を見出して、半瞬で決意した。 「まっ、いいさ。こうなったら、|戦車乗っ取り《タンク・ジャック》の世界最年少記録をつくっちゃるもんね。めざせ、スタントマンを使わないアイドルタレント、とくらあ」  どのみち、戦闘的な方向へ思案がかたむくのは、竜堂家の血筋である。とくに、終は、兄たちをいつもはらはらさせる、こわいもの知らずだ、 「さがってろ、余」  いちおう兄としての配慮をしめしておいて、終は戦車の車体に手をかけた。おりから、砲塔のハッチがあいて、戦車長らしい男が、上半身をあらわした。周囲を見まわす。  戦車長は仰天した。第一に、実弾演習さなかの演習場に、民間人、しかもミドルティーンの少年がいるわけがない。第二に、その少年が戦車にとびのってきたのだ。時速四五キロで走行中の戦車に、かるく助走しただけで、ひょいととびのったのである。 「き、きさま、こんなところで、いったい何をしとるのか」  混乱と狼狽の極、いたって本質的な質問を戦車長はしたが、返答は、きわめて無礼なものだった。少年は無言で戦車長の襟首をつかむと、装備一式とも七六キロの身体を、バスケットボールのように空中へ放りだしたのである。  そのありさまを、ひとつむこうの丘の上で、始たちは目撃した。助けにいきますか、という続にむかって、首を振る。 「ほうっておけ。戦車に自爆装置でもついていないかぎり、終がけがをすることもなかろう」  そんなことより、叔父一家、いや、茉理たちをさがしだすほうが先である。       ㈽  双眼鏡をおろした老人が、さざ波のような廟弄《ちょうろう》の色を口もとにたたえた。 「超絶した強さというものは、シリアスを排して、コメディになってしまうものだな。真剣に戦ったり武道の修業をしたりすることが、ばかばかしくなってくるじゃろう」  陸将は無言である。返答のしようがない。反論などとんでもないことだし、肯定すればしたで、自衛隊の名誉に傷がつくというものであった。 「米ソにつぐ世界第三の軍事大国とやらも、子供にかきまわされるていどのものか。野党議員どもがこれを知ったらどう評することかな」 「い、いえ、もうすこしごらんください。かならず、自衛隊の真価を発揮してごらんにいれます」  素手の民間人を相手に、自衛隊の武力を証明してみせるというのである。醜悪なほどの滑稽さに、発言した当人は気づかず、真剣そのものであった。日本国内で最強の武力集団であるはずの自衛隊が、米ソ両大国の精鋭部隊ならともかく、たった四人の民間人——それもふたりは子供——に翻弄されたとあっては、面目がたたないのだ。自衛隊全体の面目もだが、何よりも。責任者の面目が。 「わしはそう気が短いほうではないつもりだが、今日は午後から三人ばかり面会の予定があるでな」 「は……」 「なるべくなら、早目に、いい場面を見ておきたいのじゃよ。まあ能力の限界もあることゆえ、無理を言おうとは思わんがの」  頭からどなりつけるのではない。そんな楽しみは故人となった古田重平のレベルである。おだやかに脅迫し、相手のプライドを傷つける。権力と権威あっての楽しみである。それをさとっている陸将は、激発《げきはつ》もできず、卑屈に老人の顔色をうかがった。 「どういたしますれば、御前のお気に召しますでしょうか」  自分は愚かですのでお指図《さしず》をいただきたい、というのである。老人は、いくつかの心情をとりまぜて笑い、ごくさりげなく、おそるべき命令を下した。 「あの子供をねらえ」 「は?」 「聞こえぬのか。戦車のそばにいるあの子供に榴弾砲を撃ちこめと言っておる」 「ご……御前……」  陸将はあえいだ。 「いまさら。何をためらっておる。さきほど言うたではないか、自衛隊の真価を見せてやる、とな」 「…………」  たしかに、そのとおりである。だが、子供をねらえと露骨に命じられては、煮えたぎった感情もさめるというものであった。 「べつに真価など見せる必要もない。砲弾がねらってあたるかどうか、そのていどのことを見せてくれればよいのだ。それとも、極東の大国とやらは、砲弾を目標に命中させることもできんのか」  老人の酷薄な微笑が、陸将の神経網を凍りつかせた。ここで拒否すれば、彼は安楽な老後を失うことは確実である。といって、子供を砲撃の標的にしたりすれば、人道に反するだけでなく。その事実が外部に洩《ち》れたとき、責任をとらされるのは、神聖不可侵なこの老人ではなく、自分ではないか。  数秒の不決断の末、陸将は迷いを強引にねじ伏せた。反抗より失敗のほうが、体制内での安泰には有効なのだ。もともと、演習場に不法侵入してきた奴らではないか。  二両の戦車を行動不能の状態にしておいて、終たちは、兄たちと再合流した。 「茉理ちゃんはまだ見つからないか?」 「言いたかないけどね、広すぎるぜ、ここは」  土埃と砲煙で薄黒く汚れた顔を見あわせたとき、空気が裂ける音がした。危険を感知して飛びはなれようとしたとき、余ひとりをめがけて、一度に数弾が落下してきたのだ。  めくるめく閃光と轟音。  それがおさまっても、濃い砲煙は静まる気配を見せなかった。そして、そのなかに、薄い影のようなものがうごめいていた。 「余——!」  土をかぶった始、続、終の三人が、耳鳴りとめまいに耐えながら起きあがった。共通の認識が彼らの間にひらめいた。彼らは、弟の生存を知り、それにつづく変化を予測したのだ。 「やめろ、余、そこまでだ——」  始は制止した。その声は大きかったが、それと同時に、無音の炸裂が生じた。一瞬、三人は、自分たちが無限の空虚のただなかへ放りだされたような気がした。これまでさまざまな経験をしたが、そういった過去の記憶にない事態が生じようとしていた。  白い、というより真珠色のかがやきが、彼らの視力を奪った。そして、それを中心に波だった空気が、半ば固体化したような圧力で、始たち三人をつきとばした。三人は、吹きちぎられた草をかすめて、丘の下まで転落していった。 [#改ページ] 第一〇章 竜王顕現       ㈵  砲煙が晴れるまで、長い間があったように見えた。  自分たちの行為の結果に、恐怖をいだきながら、砲撃指揮官は双眼鏡をのぞきこんだ。自分の咽喉《いんこう》をつばが下る音が聴こえた。 「何だ、あれは!?」  指揮官の声がひび割れた。双眼鏡のなかで、奇妙なことがおこっていた。何か白くかがやくものが砲煙のなかにうごめいている。それは真珠の表面を巨大化したような色彩と光彩を持っていた。 「一佐、天候が急変しています」  頭上に、おどろくべき速度で雲がたれこめはじめていた。白い雲が空一面に広がると、その下に灰色の雲が流れこみ、さらにそれと地面との間に黒い雲が割りこんで、たちどころに豪雨の用意をととのえた。  大粒の雨滴が、自衛官たちのヘルメットにはじけはじめたかと見ると、たちまち鉛色の雨のカーテンが演習場をとざしてしまう。  雷光が視界を撃ちくだき、落雷音が彼らの聴覚を奪った。自衛官たちは色を失った。ふいの落雷ほど、高原で、おそろしく、かつ危険なものはない。 「退避。退避!」  悲鳴まじりの命令がとび、自衛官たちはヘルメットや銃器を放りだして地に伏した。その身体を、雨がたたく。皮膚に痛みをおばえるほどの強烈な雨だ。  音をたててふりそそぐ雨のなかで、白くかがやく光が線状に上方へと昇《のぼ》っていくありさまを、見た者もいるかもしれない。だが、ひとりの自衛官が大声をあげたのは、それが天空に昇りきってからだった。 「おい、何だ、あれは!?」  幾人かの視線が、暗黒化した空の一角に集中した。光が見える。閃光ではなく、光球でもない。光りかがやく長大な帯のようなものがくねっている。ひときわ巨大な雷鳴がとどろき、彼らは耳をおさえてさらに身を低くした。だが視線をはなすことができない。 「竜……?」 「まさか、あれは空想上の動物だろう」  声が波うち、顔色が赤と青の間を往復した。 「実在しないんだろ。そうだろう!?」  否定を期待する声は、つばをのみこむような沈黙でむくわれた。気やすめを言うだけの余裕も失《う》せている。  長大な光りかがやく竜形のものは、空中をうねりながら天の一角から近づいてきた。呼吸も困難なほどの豪雨に打ちのめされながら、自衛官たちは半ば自失し、知るかぎりの神仏の名を呼ぶ者もいた。動転し、混乱して、どうしたらよいかわからなかったのだ。上官がふだんでかい面《つら》をしているのは、こういうとき適切な指示をあたえるためであるはずだが、無線は沈黙していた。落雷と、電磁波の発生によって、無線通信が無力化してしまっていたのだ。  雨はさらに強く、はげしくなってくる。  竜が前方に両手をさしのべると、その掌《てのひら》から、青白い雷光がほとばしりでた。闇の底が白くかがやき、一瞬の後、数百万ボルトの雷撃をこうむった装甲車が轟音とともにオレンジ色の炎をはきだす。  黒に近い灰一色の世界で、数ヵ所にオレンジ色の光が点滅し、それがひとつらなりになって、もう一度、爆発をひきおこした。  雷撃による即死からまぬがれた自衛官は、炎上する装甲車から半死半生の態《てい》ではいだし、今度は腰までとどく濁水のなかでもがきまわるはめになった。火ぜめのつぎに水ぜめ、などと冗談口をたたく元気もない。  このとき、ようやく自衛隊の指揮所が、天空に竜の姿を見出した。数瞬の虚脱。雨音を消すほどのうめき声とあえぎ声。自失から回復した士官が、マイクをひっつかんだ。 「う。撃てえ!」  ほとんど悲鳴である。その命令が通じたわけではなく、各人の恐怖が反射行為をひきおこしたのであろう。  戦車砲が咆哮する。対空機関砲がそれに呼応するように火線を暗い空へのばした。  竜の巨体に、数ヵ所の火花が散った。 「命中!」  歓喜の叫びも一瞬である。竜は傷ついたようすもなく、空中で長大な、しかも異様に優美な姿をひとうねりさせた。  電光が巨大な槍と化して地上へ奔《はし》る。  炎が噴きあがり、轟音と黒煙がそれにつづいた。陸上自衛隊は、二秒にみたぬ間に、貴重な制式戦車一〇両と対空機関砲四門を失ったのである。防衛庁の文官《シビリアン》たちが聞けば率倒するだろう。  演習を査閲する制服士官たちは、卒倒することもできない。強風に揺すぶられるテントのなかで、吹きこむ雨にずぶ濡れになりながら、声も出ないありさまだ。ソ連軍が上陸したときのマニュアルならあるが、空想上の巨獣に対抗するマニュアルなどは……。  ただひとり。船津忠巌だけが、半ば泰然、半ば傲然《ごうぜん》として、椅子に坐したままである。 「見ろ、あれを。ついに竜王が覚醒しおったのだ。しかも、最大最強の竜、北海の黒竜王がな」  老人の傍《かたわら》に立ちすくむ陸将は、声も出ない。老人の横顔を見る目は、感歎や畏敬よりも、恐怖と敬遠にみちていた。彼は、老人から「お墨つき」をいただいて兵器産業に天下ることだけを望みとする俗物だったが、それだけに常識と無縁ではなかった。この奇怪な老人を、その権力と権威ゆえに崇拝していたが、それを上まわる毒素を実感して、陸将は心もち老人から身をはなした。  常識はずれの電磁波発生現象のため、外部との連絡をとりようがない。これまた常識はずれの豪雨と暴風は、弱まる気配も見せなかった。  佐官のひとりが声をうわずらせた。 「こんな天候の急変は、常識ではとても考えられません。演習は中止すべきです」  もっともな意見ながら、タイミングが完全にずれてしまっている。陸将は、相手をはりたおす衝動にかろうじて耐えると、ヘリコプターの用意を命じた。テントの一隅に、ふてぶてしいほど落ちつきはらって端座した老人に、陸将は進言した。 「いそいで退避してください。この窪地めがけて、大量の水が押しよせてきます。このままでは全員、溺れてしまいます」  反応がなく、陸将は声を高めた。 「御前、お聞きのとおりです。安全な場所へお移りください」  どこが安全なのか、確証もありはしないが、とにかくそう言った。 「悪天候か。けっこうなことではないか。野球や遠足ではあるまいし、晴天の日だけに戦争するわけにはいくまい」  陸将は全身の勇気をふりしばった。 「おことばですが、御前、あくまで演習である以上、悪天候で死者を出すわけにはいきません。そんなことになれば、いくら牙をぬかれたマスコミでも、批判がましいことを言いたてるでしょう」 「自分の一身がかわいいだけじゃろう。死者なんぞとうに出ておるわ。あの戦車のざまを見たろうに」  老人は冷笑し、傍にひかえた専属医を手まねきして、何やら命じた。黒い鞄からガラスケースをとりだした医師が、老人の腕に黒いゴム管を巻きつけ、静脈注射をはじめた。一種、悠然たるその姿を見やって、陸将の両眼に深刻な嫌悪の光が小さくゆれた。 「九〇まで生きれば充分だろうに、まだ健康を気にしていやがる」  と言いたそうであった。  無秩序に乱舞する風雨のなかを、竜堂家の三人は、叔父たちを求めて走っていた。 「この嵐が、すべて、余君の能力によるものなんですか」 「そうだろうな。余自身が、あの老人のいう竜神の如意珠なのかもしれない。生きた気象兵器、歩く台風ってわけさ」  雨と風と雷がそれぞれ咆哮《ほうこう》をほしいままにしている。声も大きくならざるをえない。 「余がその気になれば、東京全部を水没させることだってできるかもしれない。反対に、雨を一滴も降らせず、砂漠にしてしまうことだって可能だろうな。目の前で見せられりゃ、信じざるをえない、おれがいくら懐疑主義者でもな」 「今度から、なるべくあいつを怒らせないようにしよう」  とつぶやいたのは終である。彼もふたりの兄も、泥と水にまみれ、服地の数ヵ所が裂け破れて、熱帯雨林のなかのゲリラ兵士のようだ——とは、ほめすぎであろう。  天も地も、墨絵のように暗くしずみ、しばしばの雪光のみが唯一の光源だった。小さな丘の上に登りつめて、始が、半ばやけっぱちのように口笛を吹いた。 「いやあ、こいつは絶景……!」  まるで黄河が決壊したかと思われるほどの濁流が、彼らの眼前にひろがりつつある。演習場の起伏にとんだ地形は、無数の河流と島を生みだした。このまま雨がやまなければ、いずれ、大量の水は、演習場から富士山東麓一帯へあふれだし、近隣の諸都市をのみこむであろう。 「早いところ茉理ちゃんたちを救いだして、それに余を人間の姿にもどさないと、被害がどこまで広がるかわからんな」 「余の大洪水ってわけだ」  ノアの大洪水にひっかけたつもりで、終は言ってみたが、ふたりの兄は感銘を受けたようすもなかった。  とにかくも、この時点で、もっとも活力的に行動していたのは、竜堂兄弟だった。それこそ常人ではない証拠だったが、彼らとしては、火砲や戦車による人為的な攻撃がなくなっただけ、気分的には楽なほどだった。  一方、自衛隊員たちの気分は、当然ながら楽の対極にあった。 「戦車を放棄しろ! 歩いて退避するんだ」  そう命令が出て、戦車の搭乗員たちは溺死をまぬがれるため、車外にはいだし、水にとびこんだ。 「ちくしょう、自衛隊なんぞにはいるんじゃなかった。募集の係官にだまされた」  泥と後悔とすり傷にまみれた自衛官が、始たちと行きちがったが、始たちを見とがめる気力もなくしている。  富士山の姿はまったく見えず、雲と風と雨が視界いっぱいを占領している。そして、強烈な雷光と雷鳴がしばしば、晦冥《かいめい》した世界をてらしだした。  水のなかで何かにつまずき、それが不幸にも水死した自衛隊員の身体であることに気づくと、さすがに続も、憮然《ぶぜん》とした表情になった。 「このままだと、ぼくたちも水死してしまいそうですね。それにしても、ぼくたちは余君みたいに変身できるんですか?」 「変身したいのか」 「できるけどやらない、というのが一番ですね。酒や煙草と同じですよ」 「おれには麻薬に思える。副作用の大きな……」  シャワーをあびっぱなしのような頭で、始はつぶやいた。  夢のことといい、その他の経験から、末弟の余が、最大の潜在能力をもち、それに反比例して不安定な制御力しかそなえていないことは、承知していたはずなのだ。むりに抑制してきたのがよくなかったのだろうか。おさえつけ、かくすのが余のためだと、始は信じていたのだが、もっと開放的に対処し、制御力を高めさせておくべきだったのだろうか。 「なあ、続、おれは度しがたい人間だと思うかい?」 「ええ、ほぼ全面的に」 「……率直に答えてくれて、ありがとうよ」  苦笑もせずに、始がつぶやいたとき、終が声をあげて兄たちの注意をうながした。彼が指さした雨のカーテンのむこうに、一台の、特徴らしいものもないライトバンが見えたのだ。 「茉理ちゃんたちが乗せられているのは、あの車じゃないかな」 「でかした、終、たまには役に立つな」 「お礼は形にしてほしいな。口だけでは誠意を認めないよ」 「形あるものは、いつか滅びるものだぞ」  ライトバンは、車体の半分を濁水にひたしていた。もともと置かれた場所から、流されてきたのかもしれない。  後部ドアを、水圧など無視してひきはがすと、車内にとじこめられていた人たちが動いた。さるぐつわをとり、後ろ手のロープをほどこうとしたが、めんどうになって引きちぎる。 「茉理ちゃん、無事か!?」  気が強いはずの従妹《いとこ》は、声もなくうなずいた。始は安堵の息をついた。あの老人が、あるいは遺体と対面させるつもりかもしれない、という危惧《きぐ》が、続だけでなく彼にもあったのだ。ジーンズ姿の茉理を抱くように車外に出し、つづいて叔母を、最後に叔父を解放する。外に出たとたんに雨と泥水で難民風になってしまうのは、しかたないことだった。 「叔父さん、大丈夫ですか」  かなり義務的だが、とにかくそういいながら身体をささえようとする。その手を、叔父がふりはらった。 「さわらんでくれ!」  叔父の両眼からは、理性の光が消えて、怒りと憎悪、恐怖と嫌悪が暗く煮えたぎっていた。おそらく生まれてはじめて、彼は大声でわめいた。 「叔父さん……」 「さわるな。茉理にもさわるな。もうまっぴらだ。お、おまえらにかかわるのは、もうごめんだ」  雨と風のなかで、ヒステリックな怒号がひびいた。地面を踏み鳴らしたつもりだが、泥水をはねあげてしまい、口のなかにはいった泥を吐きだして、なおもわめきたてる。 「何で私がこんなめにあわなきゃならないんだ。私は大学を出てから三〇年も、学院のために働きつづけてきたんじゃないか。私ほど、学院のためを思ってきた人間が他にいるか、ええ!? それを何だ、よってたかって、私をいたぶって、そ、そんなに楽しいか。どうなんだ。何とか言ってみろ、おい」 「わかりましたよ、帰りましょう、叔父さん」  ため息まじりではあったが、始は真剣に叔父の狂態をなだめにかかった。 「学院は叔父さんのものです。古田代議士もいなくなったことだし、叔父さんの理想どおりの学院にしてください。ぼくは講師もやめます。弟たちの在校さえ認めてもらったら、ぼくは他に何の権利も主張しません。おちついたら、ゆっくり話しあいましょう」  叔父は口をとざした。ふいに理性と打算を回復した目で、彼は甥を見つめた。       ㈼  茉理たちを守って、竜堂兄弟は、さしあたり冠水《かんすい》していない高みをめざした。始は茉理の、続は叔母の、それぞれ手をひいている。終ほ、かなり邪慳《じゃけん》に、腰のくだけかかる叔父の背を押していた。 「やれやれ、伝奇小説が怪獣映画になっちまった。つぎはきっとエイリアンを乗せた宇宙船が、富士山麓に着陸する番だぜ」 「乗っていきなさい、とめませんよ、終君」  言っておいて、続は兄の耳にささやいた。 「余君——あの竜が余君だとして、砲撃で死ぬということはないでしょうね」 「その心配は無用だろうな」  始としては、無力な自衛官に多量の死者が出るほうが心配である。単に実戦経験がないだけではなく、竜(!)と暴風豪雨を敵にまわして、どう対処してよいかわからずにいるだろう。外界からも手を出しかねているにちがいない。そもそも、この暴風雨域がどこまで広がっているのか。  冠水していない丘が、灰一色の視界に浮かびあがった。そこは、自衛隊の幹部たちがようやく避難した場所だった。渦まく風のためにヘリが離陸できず、テントも倒れてしまい、生命からがら低地からはいあがったのである。だが、ひと息つく間もなかった。  最大の電撃であった。数千万ボルト、あるいはそれ以上の放電エネルギーが、巨大な光の箭《や》となっ て、大地の一角を直撃したのだ。  熱の柱が地にそびえたち、鼓膜をひきちぎるような轟音が大気を割りくだいた。数十の悲鳴があがったはずだが、誰も聴くことができなかった。  終のそばで、泥水がはねあがった。脳天から足まで電撃につらぬかれた死体が、数十メートルもはねとばされてきたのである。  靖一郎叔父は、丘の斜面に倒れ、白眼をむいて気絶していた。その傍に倒れていた叔母は、夫の姿を見て、 「だらしないわね、女より先に気絶するなんて」  と手きびしく批判してから、自分も気を失った。 「叔母さんらしいや」  終がつぶやき、茉理は、肩で息をした。 「わたしも、いっそ気絶したいわ」  じつは始自身にもそういう気分があったのだが、口には、しなかった。気絶した叔父と叔母の身体を、とにかく丘の斜面に寝かせて、泥で窒息しないような姿勢をとらせる。  あらたな雷光がほとばしった。  船津老人の身体が、光のなかに浮かびあがる。老人の服は黒く焼けこげ、落雷の被害をこうむったことを明らかにしめしていた。にもかかわらず、老人は昂然と頭をもたげ、滝に打たれる老僧のように、ふりしきる雨のなかに立ちつくしている。暗黒におおわれた天の一角に視線をむけ、光りかがやく竜の姿にむかって。声のない笑いすら浮かべていた。  異様としかいいようのない光景だった。  草は焦《こ》げ、大地はえぐられ、半ば炭化した数個の死体は、豪雨に打たれて無惨な姿をさらしている。それらは、皆、この演習の成否に責任をとるべき立場の人々であった。  それまで、まがりなりにも存在していた自衛隊の指揮系統は、このとき消滅した。集団としての秩序を失い、雨と風にたたきのめされた自衛官たちは、「健康な難民」にすぎなくなった。そして、生き残るために必死にトライアスロンをおこなっている彼らの大部分が知りようもないことだったが、ほぼ半世紀にわたって日本の政財界を裏面から支配していた老怪人が死んだのである。  死んだはずであった。  泥水が流れ落ちてくる丘の斜面を、続が駆けあがった。始が制止の声をかけたが、続は肩ごしに笑顔をひらめかせただけで、にわかづくりのウォーターシユートを駆けあがりつづけた。  天空の竜が、高地に立つ老人の姿を見つけたようであった。長大な、光の塊となった身体をのばし、老人めがけて襲いかかった。  そのように見えた。  極小の時間差をおいて、二条の閃光が走った。巨大な一条が下へ、それより小さい一条が上へ。衝撃でよろめき、目をかばいながら、続は、老人が天へむけた掌底《しょうてい》が光をほとばしらせるのを見たのだ。  雷鳴の残響が消えさらないうちに、続は、丘の上に立っていた。彼の他に立っている者はいなかった。豪雨のなか、周囲を見わたす続の足に、ふいに何者かの力が加えられた。  続は慄然として、視線を下方に転じた。彼の右足首を、ひとつの手がつかんでいる。手は腕に、腕は肩につながり、その先に顔があった。肉の薄い、そのくせ奇妙につやのある顔が続を見すえた。 「鎌倉の御前」こと船津忠巌老人は、まだ死んではいなかった。 「このていどで、わしは死なん……」  続の、硬化した表情を見あげて、老人は笑った。開いた口から、雷撃のため弾《はじ》けた歯のかけらが、ぽろぽろとこぼれ落ちた。ピンクの歯茎がぬめ光って、不気味にいやらしい。  続は大きく息をのみ、声にしてはきだした。 「つまり、あなたもふつうの人間ではなかった、ということですか」 「わしは竜種の血がほしかった。その超絶した力、その源泉である生命力がな。わしは、ほしいものを手に入れるのに労は惜しまぬ」  泥と血にまみれた笑い。 「竜泉郷で、わしはひとりの女を害して、血をすすった。高熱を発して苦しんだあげく、竜泉郷を追放されたが、そのていどの罰は論ずるにたりぬだけの効果をえたのだ。だから……だから、見るがいい」  老人は半身をおこした。続の目は、たしかに見た。老人の服は、ぼろぼろに裂け、かつ焦《こ》げており、むきだしになった胸から腹にかけて、あわく真珠色にかがやく鱗《うろこ》が、続の視線をうばった。 「わしは戦中戦後、幾度、テロリストにねらわれたかわからぬ。常人なら、とうに殺されておる。それをまぬがれてきたのは、銃弾も刃もとおさぬこの身体のおかげだ」  鱗にはじかれる雨滴が、続のスラックスの裾にかかった。豪雨のなかで、そのわずかな量の水が続には毒液のように思える。 「南海紅竜王よ、わしに血をよこせ。それをえることができれば、きさまの若さと美貌は、わしのものとなる。わしの使命と責任は大きいのだ。わしには時間と健康が必要なのだ」 「はなしていただきましょう……」 「はなさぬよ。うふふ、これにはわしと日本の未来がかかっておるでな」  統の背に冷汗が小さな滝をつくった。彼は外見よりはるかに不敢で大胆な若者だったが、このとき圧倒的な恐怖と生理的嫌悪感の双方におそわれて、声帯すら自由にできなかった。実際、足首をつかんだ老人の手には、異常な力があった。  反対がわの足で蹴りつけようとして、続はバランスをくずし、泥水のなかにひざをついた。歯を失った老人の奇怪な顔がせまる。  鈍い音がした。老人の後頭部に、何かが命中したのだ。  老人の手が離れた。続は優美な長身を一転させて、老人の手のとどかぬ位置に逃がれた。弟に遅れて丘にあがってきた始が、老人に、自衛隊員のオートライフルを投げつけたのだ。 「兄さん、借りておきますよ」 「利子を忘れるなよ」  弟に笑いかけておいて、始は老人にむきなおり、表情をあらためた。 「九〇年も生きて、そのうち五〇年以上、権力と富をほしいままにし、他人の生命と運命をもてあそんで、やりたい放題をやってきたんだ。そろそろあの世へ行って、自分が犠牲にしてきた人たちにわびたらどうです、ご老人?」  自分たちに干渉してきた船津老人の動機を、始はあるていど解明できたように思う。おそらく老人は、竜の血の効力がもっと永くつづくと思っていたのではないか。それが近年、急速に効力の減退傾向があらわれたため、それまで放置しておいた竜堂兄弟に干渉してきたのではないだろうか。 「……ふふ、いいところをついておるよ。だが、竜の血がいずれ効力を失うことなど考慮しておったよ」  老人は泥水に両手をつき、ゆっくりと身体をおこそうとするように見えた。 「わしは五〇年にわたって、竜種の血を冷凍保存してきたのだ。最後のときに、効力が失われたときにそなえてな」 「……それを飲んだのか」 「注射したのだ、さきほどな。これであと二〇年は保《たも》つ。だが、それではとうてい満足できんでな」  いきなりのことだった。老人は、ばねじかけの人形のようにはねあがったのだ。始すら、身がまえる暇《いとま》がなかった。  始のあごを、老人の拳がとらえ、始は後方にふっとんだ。  続がおどろきの叫びをあげた。兄が殴りとばされるなど、生まれてはじめて見る光景だった。始は地面に、というより、そこにあふれた泥水にたたきつけられた。第二撃をさけるため、泥のなかを一転二転してはねおきる。  東ドイツでは、オリンピック選手の肉体と活力を強化する手段として、選手自身の血をぬき、それを冷凍保存して、競技の直前にふたたび当人の身体に注射するという。それによって、本来のパワーをこえた潜在力を爆発的に誘発させることができるという。  それと酷似した状況が、老人の肉体に発生したように見えた。  滝さながらの雨に打たれながら、船津老人は立ちあがった。開いた口のなかで、白い若い歯が再生しつつあるさまを、続は見た。おぞましさが脊椎《せきつい》をかけのぼっていった。       ㈽  ふたりの若者とひとりの老人の周囲で、濁水と風が渦まいていた。  このとき、竜の姿が、天空から消えている。考人の掌底から放たれた電撃を受けて、急激に発光を消したのだ。それほど巨大量の電撃とも思えなかったが、急所に命中したのでもあろうか。 「いまのわしは、君ら全員をまとめて撃ちたおすほどの力がある。二〇年分のエネルギーを五日ほどに集約するとこうなるのだ。君らにない制御能力を、わしは気の波動によって……」  老人は沈黙した。変化は急激だった。老人は身体を硬直させ、泥水のなかに倒れた。  自信と活力にみちていた老人は。みるみる皮虜を土色にかえ、泥水をはねあげてもがいた。鱗がはがれおち、爪が黒く変色した。徴速度撮影を見るような急変だった。 「化物じじいめ!」  敬考精神に欠ける台詞《せりふ》を始は吐きだした。  彼には、めまぐるしく変化する老人のようすが、何に起因するか、直観によって理解していた。半世紀近く冷凍保存されていた「竜種」の血液が、必然的に、変質していたのだ。そして、輸血を受けた老人のがわも、それを受けとめるだけの防衛体力を失っていたのだ。さらには、血を飲むことと、直接、血管に注入することとの差異があらわれたのかもしれない。  濁水のなかでもがきまわる老人が顔をあげた。苦しげに口中の水をはきだし、恐怖と妄執にぎらつく両眼で、若者たちをにらんだ。 「わしは死なん。わしは日本一国の支配者で終わる男ではない……!」 「老人よ、大志をいだけ、か」  こんな状況でさえ、毒のこもった皮肉を口にする、竜堂家の長男だった。 「だけど、八○歳以下の世代にとっては、ちょっと迷惑なんだよ。たのむから、安らかに往生《おうじょう》してくれ。あんた以外の人間は、みんなそう願ってると思うよ」 「わしは日本の柱だ。わしは日本そのものだ」  どす黒い舌を、老人は口中からつきだした。 「日本が精神的にも軍事的にも完全な再建をはたし、米ソ両国を屈伏させるまで、わしは死なん」 「日本が世界一の強国になったって、どこの国も喜びませんよ」  ようやく余裕をとりもどして、今度は続が毒づいた。老人は何か言おうとして、ことばのかわりに、いまはえたばかりの白い歯をこぼした。 「虎を描いて犬にしか似ず、竜をまねて蛇にしか見えない。ご老人、あなたはまさにそれだ。人生最後の日まで、竜頭蛇尾におわってしまった」  老人は片腕を始にむかって伸ばした。生気の失せた、人体標本のような腕だった。五本の指が一度だけ開閉し、すぐにささえる力を失って泥濘《でいねい》のなかに落ちた。老人の傍にひざをついて、始は語りかけた。 「あなたは、おれに、事実だか真実だかの、ほんの一部分だけを教えてくれた。この際だ、もうすこしくわしいことを教えてから、永眠してくれないかな」  老人は、歯茎しか見えない口を開いた。その目とともに、それは毒にみちた瘴気《しょうき》をはきだす穴と化していた。 「教えてなどやらぬわ。何も教えてなどやらぬ。自分たちの正体を知ることができぬ苦しみにもだえるがいい」 「だと思った……」  始は立ちあがり、完全なひややかさで老人をつきはなした。 「それならそれでいい、あなたが思いこんでいるほど、おれたちは自分たち自身の正体を知りたいわけじゃない。あんただけが秘密を知っているなら、他の誰も知らないわけだ。おれたちは安全というわけさ」  老人は反応しなかった。できなかったのだ。泥水に半身をつけ、微動すらしなくなった身体は、すでに人間の体温を失いつつあった。 「余、おい、余、しっかりしろってば!」  裸の弟の身体を、水死体から拝借した自衝隊の制服でくるんで、終は抱きかかえていた。しきりに揺さぶり、声をかけたが、弟は反応しない。余の身体から真珠色のかがやきが完全に失われたとき、終の肩を誰かがたたいた。弟たちに負けずおとらず、泥水によごれた兄たちが立っていた。 「眠ってるだけですよ。さしあたり、エネルギーを費《つか》いはたしてね。心配いりません」  続がいい、終の腕から自分の腕に、意識のない末弟の身体を抱きとった。  雲はまだ厚く、雨も降りつづいていたが、その勢いは、すでに滝からふつうの雨へと変わっている。雷も明らかに遠ざかりつつあった。天候の狂乱はおさまりつつあるのだ。 「末っ子だからって甘やかさないほうがいいと思うなあ。これだけ暴れたんだから、責任とらせるべきだぜ」 「どうやって?」 「そのうちゆっくり考えるさ。いまはさしあたり、熱いやつを一杯ひっかけたいな」  終は、それほど大それたことを言ったわけではない。泥水につかった無人のジープが見つかって、車内で水に浮いていた救急箱やサバイバルキットが、茉理の手で役だてられていた。  ジープによりかかって茫然と空を見あげている叔父の手から、終はサバイバルキットのジンの小瓶をもぎとって、口をつけた。さすがに強烈だったようで、大きく息をはきだす。 「うーん、ワインていどでいいや、おれは……」  叔父の靖一郎が、始にむかって身をのりだしてきた。ジンの効果か、汚れきってはいたが。奇妙に元気がいい。 「始君、自分の言ったことを忘れてはいまいな」 「え?」 「君は講師もやめると言った。私の好きなように学院を運営していいと言ったぞ」 「たしかに……」 「よし、今月いっぱいで辞表を出してもらう。退職金は出してやるから、あとくされのないようにな。私はちょっと、動ける車がないかどうか見てくる。いや、穏便にすんでよかった、よかった」  あっけにとられて叔父の後姿を見送っている始に、茉理が近づいた。ジープの後部座席にへたりこんだ 母親にアスピリンを飲ませたところだった。 「始さん、何といったらいいか……とにかく、助けてくれて、まずお礼を言います」 「茉理ちゃん、迷惑かけて悪かった」 「あやまるのはこっちよ。いまさらではないけど、父を赦《ゆる》してやってね。こわい者がいなくなったとたんに、ああなんだから」 「たしかに、こりるということには、あまり縁のない人だな」 「始さん、講師までやめちゃだめよ。もともと理事だってやめる必要なかったんだから」 「……いや、もういいよ」  始は片手を振った。 「どうも叔父さんの意欲と生命力にはかないそうもないからね。ここはひとつ、おれとしては前言をきちんと守るつもりさ」 「だって、始さん」 「考えてみると、大学を出たばかりの青二才が、創立者の孫というだけで理事になっていたというのも、おかしなものだからね。それより、茉理ちゃん、今日のことは……」  茉理は大きくうなずいてみせた。 「わかってるわ、誰にも口外しないし、うちの両親にもむろん口外させないわ。もっとも、両親にしてみたら、何が何だかわからないでいるでしょうけどね」 「ありがとう」 「でも、わたしには口どめ料がいるわよ。カフェ・ロワイヤルを一杯とキッシュパイを一皿、できれば今月中にね」  茉理が、余の世話をするために始のそばを離れると、続が兄に肩をすくめてみせた。 「まったく、終君たちの冗談が現実になってしまいそうですね。講師までやめて、どうやって食べていくんです」 「何とかなるさ、まったくの無一文というわけじゃないし、それに……」  人の悪い笑顔を、始はつくった。 「靖一郎叔父の天下が、このままつづくとも思えないんでね。何かこまったことがおきて泣きついてきたら。思いきり高額の相談料をふんだくってやるさ」 「……さすがに竜堂家の長兄でいらっしゃる」 「そりゃあ、水戸黄門にやっつけられた海賊の子孫だからな」  渦まきながら雲が流れると、視界が広がって、一面の泥海と化した演習場の全容が明らかになりはじめた。各処に、泥色の光景のなかをうごめく泥色の人間たちの姿が見える。 「生き残った人たちも、けっこういるようですね」 「そりゃあ、おれたちはともかく、鳥羽家もどうにか無事だったんだ。自衛隊員がひとり残らず全滅するはずもないさ。ま、あのかっこうじゃ浮浪者の群よりひどいが」 「それにしても、兄さん、どうします、これから」 「さあて、どうするかな」  当面は、演習場から脱出して東京へもどる。現金を小田原駅のコインロッカーに置いてきたのは正解だった。持っていれば濁流に流されてしまっただろう。 「船津老人が死んでしまった以上、おれたちを追及する手は、さしあたっては伸びてこないだろう。あの老人にとって、秘密を独占することもまた支配の手段だったろうから」  古田も高林も、この世で証言することはもはやない。老人の死自体、真相が公開されるはずもなかった。具体的な危険は。遠ざかったように思われる。  さしあたり、一時的なものにせよ、平穏に似た状態がおとずれそうであった。 「政府としても、ぼくたちの存在を知ったところで、大雨を降らせた罪で逮捕するなんてことはできないでしょうね。でも、大々的に新聞に出た叔父一家惨殺の件は、どうなるんです?」  続の問いに、始は無言の動作でこたえた。指さす先に、茉理がいる。終と何か話しながら、ジープの後部座席に、彼女の母親とならんで余の身体をすわらせていた。そのむこうで、叔父が、泥のなかを右往左往している。 「なるほど、叔父さん一家は現に生きているんですからね。いっしょに東京へもどれば、逮捕されることもない。世間に対するつじつまあわせが、ひと苦労でしょうがね」 「虚報の責任をとって、警察幹部の誰かが辞任するだろう。新聞は、おれたちを悪膚非道の人非人と書きたてたスペースの、一万分の一ぐらいを使って、人目につかないように訂正記事をのせるだろう——それで終わりさ。ジャーナリズムで誰ひとり責任をとる奴がいない点は、賭けてもいいね」  多くの自衛官が「竜」を目撃したことについては、公式記録は「集団幻想」で結着をつけるか、沈黙を守るだろう。竜が実在するなどということは、科学常識に反すること、はなはだしい。喜ぶのは、オカルト雑誌ぐらいのものだろう。  この際、日本政府の既成科学信仰、ことなかれ主義が、始にとってはありがたい。かずかずのUFO目撃談と同様、竜の目撃談も、けっして公認されることはないはずだ。 「竜ねえ……」  完全に雨がふりやんだ、それでもまだ暗い空をあおいで、始は苦笑した。余のようにはでなことが、自分たちにもできるのだろうか。試《ため》してみたいとは、始は思わなかった。今後、永久にそういう機会はきてほしくないものだった。  茉理に呼ばれて。始はジープに近よった。大きすぎる自衛隊員の服に身をつつんだ余が、眠そうに目をこすっている。 「目がさめたか、余?」 「うん、ねえ、兄さん、何があったの。終兄さんは、ぼくが酔っぱらって何もおぼえてないっていうんだけど……」 「そのとおりだよ、酒はつつしめよ、余。終みたいなアル中少年になったら、人生、さきゆき暗いぞ」 「異議ありだね、おれはアル中じゃないぜ、そりゃお酒は好きだけど……」  不本意そうに終が抗議した。 「ところで、兄さん、終君や余君の学校のほうは、どうします」 「まあ今日明日は休むとしても、中間試験が近いんだ。ここ何日か、まともに勉強してないんだから、東京にもどったら心を入れかえて勉強しろよ」 「ちえっ、住みにくい世のなかになったもんだ」  終はぼやき、くすくす笑う統の手からジンの小瓶をひったくったが、それが空になっているのを見て、泥海のむこうへ思いきり投げつけた。                                   〈了) [#改ページ]              この物語はあくまでフィクションであり、現実の事              件・団体・個人などとは無関係であることを、              とくにお断わりしておきます。 [#改ページ]  底本     創竜伝1 超能力四兄弟 (天野版、CLUMP版)  出版社    株式会社 講談社  発行年月日  1993年2月15日 初版発行 (CLUMP版)  入力者    ネギIRC